21.女医
「――おいッ!! やめろッ!! 殺す気かァ!!」
悲鳴にも似た怒号と共に、大男の仲間である「アリババ盗賊団」の荒くれ者どもが血相を変えて止めに入る。
だが、狂犬の耳に彼らの制止など届くはずもなかった。
モルフィは絶叫する巨漢の胸元に馬乗りになると、右目に突き刺した磁器の破片をさらに深く抉り、ねじ切るようにして引き抜いた。
肉を裂く鈍い音と、飛び散る鮮血。
手の中で破片が粉々に砕け散ると、間髪入れずに今度は血塗れの拳を大男の顔面へと何度も、何度も狂ったように叩きつけ始めた。
「このガキ、いい加減にしろッ!!」
背後から二人の大男がモルフィの細い両腕を掴み、羽交い絞めにして力任せに引き剥がそうとする。だが――。
(――な、んだあ、こいつの力は……!?
線の細いガキの癖に、びくともしねぇぞ……ッ!!)
拘束したはずの荒くれ者たちの顔が、驚愕に引きつった。
モルフィの細身の肉体には、この半年の修行で培われた強靭な筋肉と、手枷の奥で渦巻く悪魔の魔力、そしてバロミロの脳内の教科書から得た「最も効率的に人間の人体を壊す」体術の神髄が宿っている。
モルフィは背後の気配を感知するや否や、予測不可能な角度で凄まじい筋力を爆発させ、男たちの拘束を容易く振りほどいた。
そのまま反転し、背後にいた男の鼻面へ向けて、自らの額を全力で叩きつける。
――グシャリ。
鼻骨が粉砕する嫌な音が響き、羽交い絞めにしていた男が顔面を血に染めて消し飛んだ。
自由になったモルフィは、息を整える間もなく、再び最初の獲物である大男へと肉薄する。
右目を失い、顔面をボロ雑巾のように変形させて床を這い回る巨漢の頭部を見下ろし、一切の容赦なく、ブーツの踵でその顔面を容赦なく踏み抜いた。
ドゴォッ!! と、スイカが割れるような不快な衝撃音が食堂に反響する。
「そこまでだ、囚人!! 武器を捨てろ!!」
事態が「イジメの範疇」を完全に超え、アリババ盗賊団が一方的に虐殺に近い暴行をされかけているのを見かねて、ようやく重武装の看守たちが警棒を抜いて止めに入った。
だが、その看守たちの怒号すら、今のモルフィの視界には一塵も入っていなかった。
彼の瞳は濁り、ただ目の前の敵を肉塊に変えることだけに特化していた。
「おい、正気か!? 腕を掴め! 脚を押さえろッ!!」
「駄目だ、力が強すぎる!! 早く応援を呼べ!!」
結局、一人の少年を制圧するために、食堂内にいた看守が十人がかりで組み付かなければならなかった。
十人の大人が総出で押し潰そうとして、なお、モルフィの肉体からは看守たちを撥ね退けんばかりの、激情の狂気が噴出し続けていた。
足元では、アリババ盗賊団の哀れな襲撃者が、股間からドス黒いアンモニア臭を漂わせて激しく失禁したのち、ピクリとも動かなくなり、そのまま深い気絶の底へと沈んでいった。
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「……ケッ、結局またここかよ」
吐き捨てた言葉は、重い鉄錆の匂いが立ち込める独房の壁に虚しく反響した。
連れ戻された場所は、あの見慣れた暗黒の檻だった。
十人の看守に寄ってたかって警棒で肉体をボコボコに殴打され、全身打撲と裂傷の血塗れにされた状態で、硬いベッドの上に乱暴に放り出されていたのだ。
「いっててて……、クソ、容赦なく叩き込みやがって……」
身をよじるたびに激痛が走る。
だが、顔をしかめながら自分の腕や脇腹を検分していたモルフィは、明確な「肉体の異変」に気づいて指を止めた。
「……いや、傷の治りが異常に早くなってやがるな。
喜んでいいことなのかどうか、分からんけどよ」
数分前まで流れていたはずの血はすでに止まり、引き裂かれた皮膚の端が、内側から蠢く魔力に促されるようにしてじわじわと結合を始めている。
バロミロの魔力の核を悪魔が喰らったことで、魔人としての自己再生能力が爆発的に跳ね上がっているのだ。
モルフィは不思議そうに身体を軽く伸ばした。
「今回は、どう考えても先に仕掛けてきたのは向こうだ。俺は流石に悪くないと思うんだがな……」
看守長が仕組んだあまりにも透け透けの罠。その不快感を頭から追い出すようにして、モルフィはベッドに身体を横たえた。
その時だった。
ドンドンッ!! と、鉄扉を乱暴に叩く、金属質の威圧的な音が独房に響いた。
「おい、囚人。鍵を開けるぞ。大人しくしていろ」
看守の警戒に満ちた声と共に扉が開き、入ってきたのは、数人の重武装の看守を背後に従えた「白衣の女」だった。
その姿を見た瞬間、モルフィは思わず目を細めた。
これまで裏社会や王宮の周辺で数多くの人間を見てきたモルフィの経験に照らし合わせても、トップレベルに整った、息を呑むほどに綺麗な女だったからだ。
酷く場違いな、洗練された美貌がそこにあった。
「……先生、危険すぎます。
先ほどの暴れっぷりを見るに、やはりこの小僧を椅子に完全拘束してからでないと、診察などとても……」
看守が警棒を握り直し、モルフィを鋭く威嚇する。
「大丈夫よ。そのために、屈強な貴方たちがここに控えているのでしょう?」
女医は冷淡に看守の言葉をあしらうと、ベッドの上のモルフィへと、値踏みするような冷たい視線を向けた。
「検診を始めるわよ。衣服をすべて脱ぎなさい」
モルフィは言われた通り、血に汚れた囚人服を無造作に脱ぎ捨て、筋肉が引き締まった生身の肉体を晒した。
女医はモルフィの身体に触れ、包帯を巻く手付きを止めると、信じられないものを見るように美しい眉をひそめた。
「……思ったよりも、随分と軽傷ね。
いいえ、軽傷というより……細胞の治癒速度が異常だわ。信じられない」
「はぁ……。そいつはどうも、ありがとうございます」
モルフィが横柄に生返事を返す。
「……あなたが先ほど、食堂で徹底的に痛めつけた男の容態。もう二度と、右目は開かないそうよ?」
女医は包帯をハサミで切りながら、咎めるような、冷徹な皮肉をモルフィの耳元へと落とした。
「それが何か問題でもあるんですか?」
モルフィは本気で意味が分からず、怪訝そうに聞き返した。
やられたから、二度と歯向かってこないように、一番効率的な方法で叩き潰しただけだ。
そのあまりにも悪びれない、倫理観の欠落した言葉に、女医はひどくショックを受けたように絶句し、美しい顔を驚愕に強張らせた
。
だが、すぐに感情を冷徹なマスクの裏へと隠し、諭すような口調でモルフィを見下ろした。
「必要以上に相手を傷つけ、痛めつけるのは人道に反するいけないことだわ。
もし相手が負けを認め、戦意を喪失したなら、その時点で暴力を止めなさい。
それが、人間としての最低限のルールよ」
モルフィは白衣の女の顔をじっと見つめながら、心の底から「一体、何をご立派に寝言を言っているんだ、コイツは」と呆れ果てていた。
ここは世界で最も凶悪な大罪人が集まる監獄島だ。
敵が負けを認めたからといって拳を止めれば、次の瞬間には背後から首をねじ切られる。
そんな温い綺麗事が通用する世界で、自分は生きてきていない。
だが、ここでこの女を論破したところで一文の得にもならない。
これ以上の問答は、ただただ面倒なだけだった。
「――はい。分かりました」
「……分かればよろしい」
モルフィのあまりにも素直な(心の籠っていない)返答に、女医は微かに不満そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
それで最低限の診察は終わりを告げ、女医は看守たちを引き連れて、冷たい白衣を翻しながら独房を去っていった。
再び訪れた、静寂と暗闇。
モルフィは冷え切った壁に背を預けながら、今しがた触れられた女医の手の、不自然なほどの温もりを思い返していた。




