20.特別扱い
あれから、さらに数ヶ月の月日が流れた。
かつて狂犬のようだったモルフィの囚人としての態度は、皮肉なほどに「模範的」なものへと変化していった。
与えられた罰を静かに受け入れ、看守たちの理不尽な命令にも一切の反抗をせず、ただ淡々と従う日々。
規律とルールを絶対とする看守長にとって、囚人に特別な扱いを与えることは本来、万死に値する許しがたい例外だった。
しかし、完全に牙を抜かれたかのように大人しく従順になったモルフィの姿を見るうちに、その不快感は徐々に薄れ、むしろ自分の教育が実を結んだのだと、歪んだ満足感を抱くようになっていた。
もっとも、モルフィは最後までココナッツを横流しした「真の裏切り者」の正体を明かすことはなかったが。
(……まぁいい。大方、バロミロに看守に裏金でも握らせたのだろう。
だから言えなかった。
言わないあいつが悪い)
看守長はそうやって自分に都合のいいように事実を歪曲させ、自らの洞察力の正しさに悦に入っていた。
まさか、自分のすぐ傍にいる有能な会計士オズレットこそがそのネズミであり、スタークをも巻き込んで自らの足元を完璧に侵食しているなどとは、夢にも思っていなかった。
(従順な家畜ほど、弄り甲斐があるというものだ。
……そろそろ、あの小僧を元の場所へ戻してやるとするか)
当初は二年間の独房行きを宣告していたが、看守長の中で、長年抑えつけられていたサディストとしての歪んだ本性が、じわじわと頭をもたげていた。
完全な暗黒の独房から、再びあの弱肉強食の大雑居房へと戻された時――自分一人だけが、独房の中で看守長並みの極上の贅沢(特に食事)を特権的に与えられていたという事実を、他の飢えた獣どもが知ったら一体どうなるか。
これまで模範囚として静かに積み上げてきた小僧の平穏が、周囲の凄絶な嫉妬と憎悪によって一瞬ではじけ飛び、地獄の底で再び無残に揉まれる。
その血生臭い光景を特等席から見物したくて、看守長の口元には、冷酷で醜悪な笑みが浮かんでいた。
「――出ろ」
看守の無造作な怒号と、重い鉄扉が開放される金属音。
それが、モルフィの長く暗い独房生活の終わりを告げる合図だった。
宣告されていた期間は二年。
だが、実際に彼がその暗黒の中にいたのは、わずか四分の一に過ぎない「六ヶ月」だった。
半年ぶりに外の空気を吸ったモルフィは、自分の肉体が以前とは比べ物にならないほど強靭に仕上がっているのを実感していた。
オズレットが裏から回し続けた極上の食事、そしてバロミロから悪魔を通じて受け継いだ膨大な戦術の知識。
まともな栄養と、脳内に宿る「バロミロの帝王学」さえあれば、人間はこれほどまでに活力を漲らせることができるのだ。
しかし、同時に一つの疑問が脳裏を過る。
(二年のはずの独房刑が、なぜ半年で切り上げられた?
あの偏執的な看守長が、何の大義名分もなく罪人を許すはずがない)
だが、その疑念の答えを深く掘り下げる前に、モルフィの身体はすでに、かつて収監されていた「大雑居房」へと連れ戻されていた。
染み付いた血と汗の饐えた匂い、囚人たちの耳障りな罵声。
あの初日の騒がしい地獄が、そこにはそのまま残っていた。
そして、割り当てられた雑居房の扉をくぐり、かつての「隣人」の顔を見た瞬間、モルフィの口元がわずかに歪んだ。
「……チッ、お前かよ」
「よぉ。久しぶりだな、アンディ」
アンディ・レッド。
この島へ連行される船の中で、隣に座っていた小悪党の男だ。
「初日でいきなり脱獄を仕掛けてギロチン寸前までいったお前と、また同じ部屋かよ……。
頼むから、今度は大人しくしてくれよ……。
俺まで巻き添えを食らうのは御免だ」
「努力はするさ」
モルフィは素っ気なく応じると、二段ベッドの下段へと不敵な笑みを浮かべながら自分の荷物を投げ置いた。
「……だがお前、独房で二年間、精神を潰されるはずだったんだろ?
なんでこんなに早く戻って来られたんだ?」
アンディが不思議そうに眉をひそめて尋ねる。
「……さぁな。運が良かっただけさ」
モルフィの脳裏に、あの看守長の不気味な薄笑いが浮かぶ。何か裏がある。
それは間違いなかった。
そしてその直後、朝食の鐘が鳴り響き、モルフィはその「裏」の正体を、文字通り全身で体感することになった。
食堂に集まった数千人の囚人たちの視線が、一斉にモルフィのテーブルへと突き刺さる。
それは、肌が焼けるほどの強烈な「嫉妬の嵐」だった。
配給されたモルフィの食事だけが、周囲の家畜のような薄いスープとは一線を画す、瑞々しいフルーツや香ばしく焼かれた肉といった、信じられないほどの豪奢な内容だったからだ。
対面に座るアンディの顔が、恐怖で瞬時に硬直した。
「……おい、なんでお前だけそんな飯なんだよ」
「そんな恨みがましい目で見るなよ。お前にも分けてやる」
モルフィはそう言って、ナイフで手際よく切り分けた最高級の果実をアンディの皿へと差し出した。
だが、アンディはそれを見るなり、悲鳴を上げるようにして猛然と拒絶した。
「ダメだ! 拒否する!! 頼むからこの場の輪を乱すな!!
そんなものを口にしたら、俺まで全員の標的にされる!!」
「?」
モルフィには、アンディがこれほど怯える意味が、その瞬間にはまだ理解できていなかった。
自分一人が特別扱いをされることで、周囲の飢えた獣どもがどれほどの殺意を抱くか、その協調性が抜け落ちていた。
直後――凄まじい衝撃がモルフィの頭の横っ腹を捉えた。
ドガァッッ!!
不意打ちの一撃を受け、モルフィの身体は食堂のベンチごと派手に吹っ飛んだ。
床を転がり、周囲の囚人たちの粗末な食器を巻き込みながら、地面へと激しく叩きつけられる。
脳を揺らされながらも、モルフィは即座に上体を起こして襲撃者を睨み据えた。
そこに立っていたのは、肌が黒く、顔中をむさ苦しい髭で覆った、熊のように大柄な受刑者だった。
「ハハハッ! ガキが看守長に気に入られてるからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!!」
大男はモルフィの皿に残った肉を乱暴に掴み取ると、自らの口へと下品に放り込んだ。
アンディは、その大男の顔を見て絶望に身を震わせていた。
(アリババ盗賊団……!!)
この大陸の裏社会において、最も凶悪で、最も倫理観の欠如した荒くれ者の集まりと恐れられている半グレ組織。
この周辺の地域に伝わる古の英雄『アリババ』の名を騙り、略奪と虐殺を繰り返してきた本物の獣たちだ。
この島にいる受刑者の中でも、特に触れてはならない最悪の身内だった。
(こいつらはヤバい。関わったら確実に殺される……!)
アンディはモルフィと目線を合わせないよう、目の前で彼の食事が蹂躙されていくのを完全に無視し、狂ったように自分の冷めたスープを啜り続けた。
オズレットの視線が、遠くの監視台へと向く。
看守たちはこの凄惨な暴行劇に対し、完全に背を向け、全く関心を寄せていなかった。
すべてが繋がった。
モルフィが独房からこれほど早く戻された理由。
なぜあいつが特別扱いを受けているかはわからない。
だが看守長のお気に入りとはいえここまでするとは思えない。
おそらく看守長よりも上位権力者のおかげだ。
この要求を断れなかった看守長が、直接手を下せない代わりに、「囚人同士の嫉妬」という最も陰湿な力を使ってモルフィを合法的に圧殺しようという、最悪の『見せしめ』の構造だった。
だが、この地獄においてそれは日常だ。
ルールはただ一つ。イジメられた方が、弱かった方が悪い。
――パリンッ。
静まり返った食堂に、鋭い硬質な音が響いた。
スープを飲んでいたアンディの手が止まり、怪訝そうに横を振り向く。
次の瞬間、食堂の全囚人と看守たちの時間が、凍りついたように静止した。
地面に這いつくばっていたはずのモルフィが、いつの間にか大男の懐へと鋭く潜り込んでいた。
バロミロから脳内に叩き込まれた実戦の知識が、肉体のリミッターを瞬時に解除させたのだ。
モルフィの右手には、先ほど叩き割ったスープ皿の、最も鋭利に尖った「磁器の破片」が握られていた。
「――が、あぁあぁあぁあああッッ!!???」
大男の肉厚な右目に、その血塗れの破片が、根元まで深く、容赦なく突き刺さっていた。
モルフィは返り血を顔面に浴びながら、冷酷極まりない、獣のようなギラついた瞳で、絶叫する巨漢を見下ろしていた。




