19.悪党の器
それから数日後、なぜか最下層の独房に配給される食事が劇的に改善された。
真の暗黒に閉ざされていた五感遮断の刑は解かれ、床に置かれたのは不味いスープなどではなく、栄養の行き届いた上質な肉料理と温かい白米。
まるで要塞の最高幹部か、あるいはあのバロミロと同等の特権階級にしか許されないような豪奢な食事だった。
(……一体、何が起きた? あの老いぼれが裏で看守長と交渉でもしたのか?)
モルフィが驚きと共に料理を口に運ぼうとしたその時、器の底から一枚の小さな紙切れがヒラヒラと床へ舞い降りた。
『気づくのが遅れて本当にすまない。なんとか上層部と交渉を取り付けた。
もう飢える心配はない。踏ん張れ、友よ』
極限まで文字数を減らしながらも、必死の想いが込められたその筆跡。
――オズレットだ。
間違いなかった。あの時、砦で自分の命を賭けてあの会計士をスタークの手から守り抜いた選択は、何一つ間違っていなかったのだ。
あの男は外で、今も自分と共に戦ってくれている。
脱走に失敗し、この暗黒の檻に叩き落とされてから、なんだかんだでもう二ヶ月の月日が流れていた。
運ばれてくる極上の食事を貪るように平らげると、数日前までの飢餓が嘘のように、モルフィの身体の奥底から爆発的な活惑とエネルギーが満ち溢れてきた。
肉体が全快した今、やるべきことは一つだった。
モルフィは深く息を吸い、久々に己の精神の深淵へと意識を沈め、あの相棒を呼び出した。
キィィィィィィ――ッ!!!
深淵に姿を現した巨大な蛾の悪魔は、耳を聾するような鋭い鳴き声を上げ、怒り狂ったように翅の眼の紋様を激しく明滅させた。
主を飢えに苦しませ、対話を絶っていたことへの、彼なりの猛烈な抗議であり、心配の裏返しだった。
「悪かったよ。本当に、お前を気遣う元気すら残ってなかったんだ。……怒るな、もう大丈夫だ」
モルフィが苦笑しながら語りかけると、悪魔は不機嫌そうにキチチと鳴きながらも、俺の頭上へと舞い上がり、その細く力強い六本の脚を再びモルフィの両肩へと乗せてきた。
その瞬間だった。
これまでとは明らかに違う、異質な「兆候」がモルフィの脳内を駆け巡った。
爪の先から流れ込んできたのは、単なるドス黒い魔力の奔流ではなかった。
それは文字や、声や、明確な図形となって、まるで一冊の巨大な魔導教科書を脳内に直接叩き込まれるかのように、凄まじい情報量で流れ込んできたのだ。
そこに刻まれていたのは、あの怪物バロミロのこれまで培ってきた戦術、思考回路、そして世界の理に関する圧倒的な知識の数々だった。
「これは……、なんなんだ……!?」
モルフィは押し寄せる情報の渦に目眩を覚えながらも、ハッと一つの真実に思い至った。
あのスタークや教団の連中が、血眼になって探しているバロミロの「隠匿された遺産」とやら。
その正体は、どこかの金庫に眠る金銀財宝などではない。
(遺産というからどんなお宝だと思っていたが……。
まさかバロミロの知識そのものが……悪魔を通じて受け渡される『遺産』だったのか……!)
モルフィの覚醒に呼応するように、脳内に宿ったバロミロの膨大な記憶の核が、まるで厳格な教師の如き重々しい響きを伴って、波紋のように教えを響かせ始めた。
――『小僧、よく聴け。人生には、絶対に覆らない三つの優先順位がある』
脳内に直接響く、バロミロの不敵な幻聴。
――『第一位は「知識」だ。第二位は「宝石」、第三位が「土地」だ。
何よりもまず、知識の収集を最優先しろ。
金や力は奪われるが、一度脳に刻んだ知識だけは、誰にも奪われず、死ぬまで積み上げ続けることができる最強の武器だからだ』
――『第二位の宝石は、いざという時に最も身軽に持ち出せ、大陸のどこへ行っても最高効率で換金できるからだ。
そして第三位の土地は、己の居場所と勢力を守るために手に入れろ』
バロミロという男が、裏社会の頂点に君臨し続けられた理由。
その帝王学の真髄が、魔力のパスを通じて、今まさにモルフィの血肉へと変わっていく。
本物のバロミロは、数重もの鉄格子の向こうに幽閉されている。
だが、この暗黒の独房の中で、その怪物の魂は完全にモルフィの「絶対的な教師」となった。
手首の手枷がジチジチと音を立てるなか、モルフィは暗闇の奥で、かつてないほどに邪悪で、そして獰猛な笑みを浮かべた。
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それから数日後、オズレットは再び最奥の個人独房を訪れ、バロミロに対面していた。
窓の向こうの怪物が、まさかあの第四使徒スタークの実の父親であるとは夢にも思わず、彼は極めて事務的な口調で報告を始めた。
オズレットは先日の看守長室での出来事――スタークと鉢合わせたこと、そして彼からバロミロの隠し資金を横取りするための「偽装工作」を依頼されたことのすべてを、包み隠さず正直に打ち明けた。
バロミロを裏切るフリをして、その実、二重スパイとして立ち回るための確認だった。
「――構わん、好きにやれ」
バロミロは怒るどころか、悠然と手元の葉巻を燻らせ、紫煙の向こうで不敵に笑った。
「あのバカに金を渡したところで、大した意味などありはせん。
資産というものはな、どれだけ持っているかではなく、どう使うかがすべてだ。
使いこなす知性のない奴に流れた金は、やがてただの死に金になる」
「……左様でございますか」
オズレットは冷徹なまでのバロミロの合理性を、内心で高く評価していた。
どこでこれほどの経済学や金融額を身につけたのだろうか。
下手すればオズレットよりも知識があった。
この男の持つ感性は、粗野な裏社会の犯罪者というよりも、むしろ大陸の一流国家を動かすまっとうな大実業家のそれに酷く酷似していた。
話が本題に移り、オズレットはバロミロがモルフィへと密かに引き渡した「遺産」の全貌について、軽く説明を受けた。
「悪魔を介した、知識の共有……。本当に、そのような芸当が可能なのですか?」
「俺の契約した悪魔の固有権能だからな。
……まぁ、この技術を確立するまでに、実験台として死んでいった奴らの犠牲は数知れんがね。
俺はこの『知識を共有する力』だけで、裏社会の頂点まで成り上がった」
「……ご立派だと思います、純粋に」
倫理的な是非はともかく、オズレットは一介の技術者として、その底知れぬ執念に素直な畏敬の念を抱かざるを得なかった。
「それから、スタークに命じられた偽装工作の件ですが」
オズレットは眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせ、手元の帳簿を指で叩いた。
「彼を信用させる過程で、スターク個人の隠し口座の番号を吐き出させました。
厳重に施されていたはずの暗証番号も、すべて私の頭の中にあります」
「……フン、本当にバカな奴だ」
息子のあまりにも浅はかな失態を聞いたバロミロは、一瞬だけ、ひどく遠くを見るような、寂しげな目を浮かべた気がした。
どれほど武力に秀でていようとも、搦め手の情報戦において、使徒はマフィアの巨頭と宮廷会計士の敵ではなかったのだ。
「結局のところ、知識を持たぬ者は、知識を持つ者に搾取される。
それが世界のすべてだよ」
バロミロは自らの白髪混じりの頭を、指先でトントンと軽く叩いた。
「バロミロ殿。……一つ、教えていただけますか?」
オズレットはずっと胸に引っかかっていた疑問を、思い切って口にしてみた。
「なんだ?」
「どうして、そこまであのモルフィという少年に期待するのですか?
確かに彼には、人を惹きつける奇妙なカリスマ性や、使徒を前にしても物怖じしない度胸はありますが……それでも、ただの一介の若者に過ぎないでしょう?」
バロミロは楽しげに目を細めると、逆質問を返してきた。
「お前は、あいつがそもそも、どうしてこの監獄島に捕縛され、収監されるに至ったか、その本当の罪状を知っているか?」
「いえ。詳しくは存じ上げません」
「中央教団が支配するこの大陸全土に魔薬なるものを流通させ、国の中枢まで汚染し、数々の依存者を続出させた主犯があの小僧だ」
「――ッ、なんと……!」
オズレットは思わず息を呑んだ。
王宮に仕えていた頃、教団の上層部が「魔薬」の密輸ルートを潰すために、異常なまでの大軍を動かしていた騒動を、朧げながら記憶していた。
一度手を出せば激しい中毒性を引き起こし、人間の精神を完全に狂わせて廃人にするという、あの恐るべき魔薬の出所が、まさかあの男だったとは。
「まあ私も聞いた話だから何にも言えないがね。
あいつの目を見て、直に話を聞いた時、確信したのさ。
この男は、いずれ世界そのものを根底からひっくり返す。
そう思わざるを得んほどの、本物の『悪党の器』が、あの若さで既に完成されている」
バロミロは我が事のように、本当に嬉しそうに微笑んだ。
(……だが、この話は二度と、他の誰の前でも大っぴらに口にするべきではないな)
オズレットはバロミロの言葉を反芻しながら、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
この監獄島には、まさにその魔薬のせいで家庭が崩壊し、自暴自棄になって犯罪に手を染めて収監された囚人や、奪い合いの抗争に巻き込まれた被害者が多数収監されている。
もしモルフィの過去の正体が看守や囚人たちに露見すれば、たちまち激しい憎悪の対象となり、命を狙われるのは火を見るより明らかだった。
オズレットは眼鏡の位置を静かに直すと、その恐るべき秘密を、自らの胸の奥底へと深く、厳重に鍵をかけて仕舞い込んだ。




