18.オズレットとバロミロ
バロミロがそのオズレットという男と接触を果たしたのは、モルフィの独房を訪れてから一ヶ月が経過した頃だった。
看守長に余計な勘繰りを入れさせぬよう、あえて長すぎるほどの時間を置き、完全に機が熟すのを待って動いたのだ。
バロミロは自身の持つ特殊な特権を行使し、オズレットを最奥の個人独房へと呼び出した。
当然、オズレットにとってバロミロという大陸の怪物は雲の上の存在であり、これまでの接点は完全に皆無だ。
鉄格子をくぐるオズレットの表情には、なぜ自分がこの部屋に招かれたのか分からず、張り詰めた困惑と警戒の色が浮かんでいた。
「……随分と、身なりが良いようだな」
それが、正面に対峙したバロミロがオズレットに抱いた最初の印象だった。
オズレットが纏っている衣服は、仕立てこそ囚人服のそれだが、汚れ一つなく、およそこの監獄島にいる罪人のものとは思えなかった。この一ヶ月足らずの間に看守長の信用を完璧に勝ち取り、一部の制限付きではあるものの、看守たちの資金運用を任されることで、要塞内のほぼ全てのエリアを自由に闊歩できる権利を手に入れていたのだ。
その報告を聞き、バロミロは「どおりで」と内心で得心した。
あのガナン看守長を相手に、これほど早く絶対的な地位を築くとは、モルフィが命がけで庇っただけのことはある。
「お前に、やってほしい仕事がある」
バロミロは悠然と葉巻の煙を吐き出すと、机の上に一枚の紙切れを差し出した。
そこには、複雑な数列と記号が三行にわたって羅列されている。
卓越した会計士であるオズレットには、それが何を意味しているのか瞬時に理解できた。
裏社会の大巨頭が隠匿している、秘密口座の暗号化されたデータだ。
オズレットは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、数字から目を上げてバロミロを真っ直ぐに見据えた。
「……これを解析し、資金を動かせと? 構いませんが、私への見返りは何ですか?」
「モルフィの食事だ。今すぐ奴への『折檻』を解かせ、まともな食料を最優先で独房へ届けろ」
モルフィ、という名を聞いた瞬間、オズレットの肩が明確に跳ね上がった。
「……失礼ですが、貴方とモルフィはどういう関係なのですか?」
「師匠と弟子だ。
もっとも、あの強情な小僧が、あっちにその気があるのかは分からんがね」
バロミロは不敵に笑うと、現在モルフィが五感を遮断された暗黒の独房に幽閉され、飢餓一歩手前の凄惨な拷問を受けているという現状を、淡々と説明して聞かせた。
「……そんな、ことになっていたのですか……」
オズレットの顔が、見る間に悲痛な色へと染まっていく。
自分の渡したココナッツのせいで、あの少年がそこまでの地獄を見ているなどと、想像すらしていなかったのだろう。
(出会ってからまだ短い期間のはずだが、大した信頼関係だな、お前たちは)
バロミロはオズレットの隠しきれない動揺を見て、彼らの絆の深さを認めざるを得なかった。
「……ところで、お前はあいつが『悪魔付き』の異能者であることを知っていたか?」
「え……? あいつが、悪魔付き……ですか?」
オズレットは我が耳を疑うように、本気で驚いた表情を見せた。どうやらそこまでは知らされていなかったらしい。
「あぁ。ここを脱獄するなら、いずれ奴の悪魔の力が不可欠になる。
だがそのためには、現在奴の腕を縛っている『純銀と聖塩の魔導手枷』をどうにかせねばならん。
鍵はここにない。だから解除できん特級の呪物だ。
何とかあの腕輪を引きちぎる現実的な方法を考えてほしい。
どうしていいか、俺にもまだ妙案が浮かばんのだ。
最悪手を切り落とすしかなくなる」
オズレットは小さく息を呑むと、痛ましいほどに強く拳を握りしめ、覚悟を決めた目で深く頷いた。
「――分かりました。モルフィの食事の件も含めて、すべて私に任せてください」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
オズレットはモルフィの食事改善の交渉を取り付けるため、重い足取りで看守長室の扉を叩いた。
だが、タイミングが悪かった。
部屋の奥には、ガナン看守長だけでなく、およそこの世のものとは思えないほどの濃密な威圧感を放つ「先客」がいた。
「……オズレットか。すまないが、今は見ての通り大事な来客中だ。日を改めてくれ」
ガナン看守長が冷淡に手を振る。
その言葉に従い、オズレットが丁重に一礼してその場を立ち去ろうとした、その時だった。
「いい、気にするな。邪魔をしたのはこちらのほうだ。下がらせる必要はない」
極厚の漆黒のフードの奥から、鼓膜を凍らせるような冷徹な声が響く。
そこにいたのは、中央教団が第四使徒スタークだった。
オズレットの背中に冷たい汗が伝わる。
かつて宮廷に仕えていた身として、国最高峰の武力である使徒の顔と恐ろしさを知らないはずがなかった。
それに看守の話でうっすら聞いた話がある。
あのモルフィをボロ雑巾のように叩き伏せた張本人。
しかもそれがここにいるとは。
憎しみを隠しながらガナン看守長の判断を仰ぐ。
看守長はスタークの言葉に一度頷くと、オズレットへ視線を戻した。
「……分かった。使徒様がお許しだ。用件を極力手短に話せ」
「は、はい……。恐れながら申し上げます。
実は先ほど、バロミロにという男に呼び出され、彼の隠匿口座と思われる資金の運用および暗号の解析を任されました」
「――何だと!?」
看守長が驚愕の声を上げるより早く、その場にいた誰よりも激昂したのはスタークだった。
「なぜ、ただの囚人であるお前になどにあの老いぼれが声をかける!? 理由を言え!」
室内の空気が一瞬で自重を増したかのように重くなる。
スタークの剥き出しの圧迫感に気圧されそうになりながらも、オズレットは卓越したポーカーフェイスを維持し、事前に用意していた「完璧な建前」を並べ立てた。
「わ……分かりません。
ただ、私が元々宮廷の会計士であった経歴を何らかの方法で耳に挟んだのでしょう。
私とバロミロという男には、これまで一切の接点も因縁もございません」
オズレットの淡々とした、そして嘘偽りのない怯えの表情を見て、スタークは辛うじて頭を冷やした。
確かに、この一ヶ月で急激に頭角を現した会計士の受刑者に、バロミロが目を付けたとしても不思議ではない。
「……チッ。で、その老いぼれはお前に資金を動かすよう要求して、代わりに何を求めてきた?」
「見返りとして、現在最下層の独房で折檻を受けている『モルフィ』という男の食事と環境を、今すぐ改善してほしいとのことです。
具体的に申し上げますと、バロミロ殿が受けている特権と同等の食事の待遇を、そのガキにも与えよ、と」
「……」
看守長は顎を撫でながら、黙ってその条件を吟味し始めた。
バロミロの隠し資産を合法的に(あるいは看守たちの裏金として)回収できるのであれば、一人の囚人の食事を良くすることなど安い投資だった。
オズレットは二人の顔色を窺いながら、まるで自分はその交渉に全く興味がないという風を装って言葉を続けた。
「正直に申し上げまして、私はモルフィという男のことも、バロミロという男のことも大して知りません。
ただ、一介の囚人として巨頭からの依頼を断るわけにもいかず、こうして誠実に看守長へ伝言をお伝えしたまでにございます。
もし、看守長が『否』とおっしゃるのであれば、私は即座にこの話を白紙に戻し、指示に従います」
その完璧なまでに客観的で、従順な態度を、スタークはフードの奥からじっと凝視していた。
やがて、第四使徒の薄い唇が、邪悪な歪みを描く。
「おい、お前。……これほどの資金運用ができる技能があるなら、こういった芸当も可能だな?」
スタークが机の上に指を突き立て、冷酷な声である指示を口にした。
それは、会計士としてのオズレットの技術があれば、十分に実行可能な「偽装工作」だった。
――だが、もしそれを実行すれば。
それはバロミロの隠し資金を横から奪い取り、あの怪物を完全に「裏切る」ことを意味していた。




