17.悪魔との交信
規定の時刻を過ぎても、あの小僧が現れない。
月曜日と木曜日。
それだけが、この退屈な檻の中でバロミロが唯一設けた世界との接点だった。
それすらも守れないほど、モルフィの身に重大な何かが起きたということか。
バロミロはアクリル窓を無造作に叩き、外に控えていた看守を呼び出した。
「――おい。何の用だ、バロミロ。大人しくしていろと言ったはずだぞ」
鉄格子を開け、面倒そうに顔を覗かせた看守に、バロミロは表情一つ変えずに低い声を投げかけた。
「モルフィはどうした。なぜ時間になっても連れてこない」
看守は鼻でせせら笑うと、警棒を肩にトントンと当てた。
「ああ、あの生意気なガキか。
奴なら、檻の外から不正に飯の賄賂を受け取っていたことが看守長にバレてな。
今は光も遮断された独房で、手痛い『折檻』を受けている最中さ」
「ちなみに……奴は何を受け取っていた?」
「何って、ココナッツの半分さ。
この島じゃ、ガナン看守長のお気に入りしか口にできない贅沢品だ。
それをどこぞのネズミが横流ししていやがったのさ。
大方賄賂でも受け取っていたのだろう」
ココナッツの半分。
その一言だけで、バロミロはすべての事情を完全に察した。
あの小僧、誰かを庇って黙秘を貫いているな。
だからこそ看守長は激怒し、食事を断って暗黒の独房へと幽閉したのだ。
このままでは、悪魔との同期が完了する前に、ただの飢餓で小僧の肉体が朽ち果ててしまう。
(お前には殺せない、とバカ息子に言ったばかりだ。
こんなところで無様に死なれては、俺の面目が立たんではないか……)
バロミロはフッと不敵な笑みを浮かべると、看守を真っ直ぐに見据えた。
「――私が奴の独房へ、直接出向こう」
「……はぁ!?」
看守は、我が耳を疑ったように素っ頓狂な声を上げた。
「おい、自分が何を言っているのか分かっているのか?
お前は国を揺るがした大罪人だぞ。
そのお前が、たかが一人の新入りの独房へ面会に行きたいだと?
……なぜお前が、そこまであのガキに固執する?」
その問いに対し、バロミロはそれ以上の言葉を返さなかった。
ただ、深く紫煙を燻らせ、すべてを威圧するような絶対強者の瞳で看守を睨み据えた。
その無言の圧力に、看守の背中に冷たい汗が伝わる。
この百三十二号室の男をあまりに不機嫌にさせれば、スタークが血眼になって探している『遺産』の情報は永遠に失われる。
ガナン看守長ですら、この男の機嫌だけは損ねないよう細心の注意を払っているのだ。
「……チッ、分かったよ。そこまで言うなら、看守長に直接相談してやる」
看守はバロミロの威圧感に気圧され、忌々しげに首を振った。
「だが、断られても俺に文句を言うなよ。
あの看守長が、そんな特例を簡単に許すとは思えんからな」
そう言い残し、看守は確認を取るために足早に部屋を出て行った。
一人残されたバロミロは、消えかける葉巻の火を見つめながら、独房で耐えているであろうモルフィの不屈の牙に、静かな期待を寄せていた。
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重い鉄枷を何重にも嵌められながらも、バロミロはまるで自分の城の廊下でも歩くかのように、悠然と歩を進めていた。
そのすぐ後ろには、険しい表情をしたガナン看守長が直々に同行している。
「……」
バロミロという男の立ち位置は、この監獄島において極めて歪で、複雑だ。
第四使徒スタークの実の父親であり、大陸の裏社会を牛耳った伝説的な大巨頭。
いくら囚人のルールを絶対とするガナン看守長といえども、国家の最高戦力である使徒の身内であり、かつ莫大な『遺産』の鍵を握るこの男の要求を、容易に跳ね除けることなどできるはずがなかった。
やがて一行は、すべての明かりを遮断された、最下層の独房へと行き着いた。
看守長の手によって鉄扉の覗き窓が開けられ、バロミロがその奥へと声をかける。
「――聞こえるか、モルフィ」
僅かに差し込んだ廊下の光の中に浮かび上がったのは、冷たい石畳の上で、生気を失い屍のように倒れ伏しているモルフィの姿だった。
「扉を開けてくれ」
バロミロの静かな、しかし拒絶を許さない命令に、ガナン看守長は忌々しげに舌打ちをしながらも、渋々といった様子で重い鉄扉を開放した。
バロミロは迷うことなく独房へと足を踏み入れた。
床に横たわるモルフィの身体をそっと抱き起こし、その太ももを膝枕のようにしてモルフィの頭を乗せる。
そして、看守たちの目を盗んで胸元の衣服の奥に隠し持ってきた「ある果物」を素早く取り出し、モルフィの乾ききった唇へと押し当てた。
溢れ出てきたその甘い果汁の味に、モルフィの意識が急速に覚醒する。――それは、ココナッツだった。
まさかバロミロが、モルフィが折檻を受ける原因となったまさにその果物を持って現れるとは。
ガナン看守長はそれを見て、驚きと不快感が混ざり合った怪訝そうな表情で眉をひそめた。
(こいつが共犯の人間か。クッソ。道理でこのガキが何も言えないわけだ)
正確には違うが、ガナンは少なくともそう解釈した。
この男もバロミロによって弱みを握られているのだろうと。
「……大丈夫だ。お前ならば、この程度の苦難など容易に乗り越えられる。
お前ならばな、小僧」
バロミロはまるで実の息子を慈しむかのような優しい手付きで、モルフィの泥に汚れた髪をそっと撫でた。
看守長はその受刑者同士の奇妙な慰め合いの光景に、酷く不愉快そうに鼻を鳴らした。
国家の大罪人と薬物の密売人のガキが傷を舐め合っている――ただの気心の知れた狂人たちの、無意味な感傷にしか見えなかったのだろう。
「……下らん。精々、檻の中で仲良く傷を舐めあい腐るがいい」
ガナン看守長は吐き捨てると、見張りの看守にそのまま監視を任せ、自らはその場を後にした。
だが、看守長が去ったその瞬間。
モルフィの頭を優雅に撫でていたバロミロの指先から、ドス黒く洗練された膨大な魔力が、じわりとモルフィの頭蓋を通じて内側へと流し込まれた。
それは、手枷の呪詛を完璧に潜り抜け、モルフィの深淵の奥底へとダイレクトに届けられる。
バロミロは、モルフィから奪った魔力をただ返すだけでなく、彼自身の強力な魔力の「核」を、モルフィの中に眠る悪魔へと直接手渡したのだ。
暗闇の深淵で、その意図を完璧に理解したモルフィの「蛾の悪魔」が、キチチチと歓喜の音を鳴らしてその力を貪欲に喰らい尽くしていく。
手枷の呪詛を内側から押し返すほどの魔力が細胞の隅々にまで行き渡り、モルフィの脳内に奇跡的な明晰さが戻ってきた。
看守長たちの注意が逸れているわずかな隙を突き、バロミロは膝元に横たわるモルフィの耳元へ、地を這うような低い声をそっと忍ばせた。
「――それで、小僧。お前がそこまで頑なに庇い立てしている人間は、一体誰だ?」
「……」
モルフィはピクリと眉を動かしたが、すぐにまた重い口を噤んだ。
水分不足で腫れ上がった瞼の奥にある瞳は、未だにバロミロへの警戒を解いていない。
(なるほどな……。
自分がここで口を割れば、その身内にまで報復が及ぶと、そう恐れているわけか)
バロミロはモルフィの頑なな沈黙からその心理を瞬時に見抜き、即座にアプローチを切り替えた。
声音から鋭さを消し、どこか包容力すら感じさせる深い響きを混ぜ込む。
「……安心しろ。俺はその男を追い詰めるつもりなど毛頭ない。
むしろ逆だ。
その男の手腕と立場を、お前をこの状況から救い出すための『協力者』として引き入れたいだけだ。
危害は加えんし、看守どもに密告するような真似もしない。
俺を信じろ、モルフィ」
その絶対的な強者が放つ言葉の重みと、体内に満ちていく魔力の温かさに、モルフィの頑固な防壁がわずかに揺らいだ。
バロミロの力を借りなければ、自分も、そして外にいるあの男も、いずれ看守長に突き止められて破滅する。
モルフィは精気を失った顔のまま、乾いた唇を幽かに震わせ、そっとその名前を零した。
「……オズレット、だ……。看守の税務を任されている……、会計士の男……」




