16.手助けの代償
バロミロとの対話の時間は、俺が思っていたよりも遥かに短かった。
面会室で行われることと言えば、あの男がアクリル窓の隙間から手を翳し、俺の体内で暴走しかけている魔力をただ静かに吸い上げるだけ。
交わされる言葉も最低限で、実質的な「講義」や「修行」のようなものはまだ始まっていない。
正直に言えば、その物足りなさにがっかり……というよりも寂しく思っていた。
だが、それでも、光の届かない独房でただ時が過ぎるのを待つだけの俺にとって、毎週二回、バロミロと対峙する時間だけが、唯一生きている実感を味わえる最高の娯楽であり、心の支えだった。
そして今日も、独房の床で肉体を限界まで追い込んだ後、唯一の救いである「食料の配給」が届けられる時間を、今か今かと待ち侘びていた。
ガシャリ、と足元で差入口が開く。
だが、俺がその木製バケツに手を伸ばそうとしたその瞬間、無骨なブーツの先がバケツを乱暴に蹴り飛ばした。
「――おい。動くな、囚人」
冷め切った野菜スープが床へ無様にブチまけられる。
慌てて顔を上げると、そこに立っていたのは、数人の看守を引き連れた監獄島の絶対権力者――ガナン看守長その人だった。
看守長は顔を不快そうに歪めながら、スープの海に濡れて転がった、あの「半分のココナッツ」の残骸を警棒の先で突いた。
「なんだ、これは?」
冷徹な声が独房の狭い空間に響き渡る。俺は床に跪いたまま、奥歯を強く噛み締めた。
「本来、この最下層の独房にいる罪人に、このような南国の贅沢品が配給されるわけがない。
……フン、この島に小賢しいネズミが紛れ込んでいるらしいな」
看守長はココナッツを忌々しげに踏み潰すと、冷たい目を俺へと向けた。
「お前にこれを横流しし、賄賂を受け取っていた担当の看守は、先ほど私の手で処刑しておいた」
感情の失せた声。おそらく嘘だ。
これを渡し続けたのはオズレットなのだから。
おそらく、俺を揺さぶるためのハッタリだろう。
そう思いたかった。
だが、ルールに異常なまでに固執するこの男なら、本当に全く無実の看守の首を撥ねた可能性も捨てきれなかった。
「さて、モルフィ。これを檻の外からお前に手渡していた、本当の黒幕は誰だ?
誰がこのココナッツを用意した?」
看守長が鋭い目で問い詰めてくる。
オズレットの顔が脳裏をよぎった。
だが、俺は固く唇を結んだまま、微動だにせず看守長をただじっと睨み返し続けた。
ここでオズレットの名前を出せば、今度こそあいつの首がギロチン台に送られる。
そんなことは絶対にさせない。
どれだけ時間が流れただろうか。
静寂のなか、俺の沈黙を「拒絶」だと受け取ったガナン看守長が、退屈そうにため息をついた。
「言わないというなら、別に構わんさ」
看守長はそう言い残すと、一滴のスープすら残っていない空のバケツを、冷酷に外へと引き抜いた。
「その強情さに免じて、今日からお前の飯は抜きだ。
白状するまで、水の一滴すら与えん。
……この暗闇の中で、いつまでその生意気な目が保つか、楽しみにしているよ」
重々しい鉄扉が閉まり、独房は再び完全な暗黒へと包まれた。
胃袋が悲鳴を上げるような飢餓感がじわじわと襲ってくる。
だが、オズレットとの細い絆を断ち切られ、明日からの食い扶持すら失った絶望の淵にありながらも、俺の瞳の奥に灯ったギラギラとした復讐の炎だけは、決して消え去ることはなかった。
普段なら、この狭く不毛な独房の中でも、己を奮い立たせて狂ったように身体を動かしていた。
だが、丸二日を超える完全な絶食は、俺からあらゆるエネルギーを根こそぎ奪い去っていた。
立とうとするだけで激しい目眩が襲い、視界がチカチカと明滅する。
運動どころか、ただ横たわっているだけで精一杯だった。
身体の飢えは、やがて精神を蝕み始める。
脳裏を過るのは、泥を這うようなネガティブな思考ばかりだった。
決して自分は、底抜けに楽観的な性質じゃない。
そして世界を憎み、自ら作り出した薬物で国をねじ伏せようとしてきた悪党だ。
それは自覚している。
そんな俺のなけなしのプライドすら、容赦のない空腹という本能の前には無様に擦り切れていく。
やれることと言えば、もはや身体を動かさずに済む「悪魔との対話」くらいのものだった。
だが、それすらも今の俺にとっては酷く惨めな、傷の舐め合いに思えて仕方がなかった。
精神世界(モルフィはそう認識している場所)で、いつものように翅を明滅させる巨大な蛾を見上げながら、俺はぽつりと情けない本音を漏らしていた。
「……なぁ。なんでお前が、俺みたいな奴を主に選んでくれたのかは知らねぇけどよ。
……情けねぇよな、俺。
お前はきっと、俺に何かを期待して力を貸してくれたんだろうに、今の俺は、飯の一杯すら自分で用意できねぇんだ」
キチチチチ、キチチチ……。
悪魔はいつになく、ひどく繊細で優しい音を鳴らし、その大きな翅で俺の精神を包み込むように優しく羽ばたいた。
『そんなことはない、私はお前を信じている』と、そう言ってくれているような気がした。
だが、今の俺にはその温かさを受け止めるだけの集中力すら、もう残っていなかった。
その時、重々しい鉄扉が容赦のない音を立てて開いた。
差し込んできた強烈な光の逆光の中に、あの忌まわしいガナン看守長のシルエットが浮かび上がる。
看守長は床に倒れ伏している俺を見下ろすと、手にした木製バケツから、湯気の立ち上る野菜スープの器を床へと置いた。
嗅覚が狂うほどの濃厚な出汁の香りが、独房の饐えた空気を一瞬で塗り替える。
限界を迎えていた俺の身体は、理性を置き去りにしてスープへと這い寄り、震える手で器を掴むと、狂ったようにそれを喉へと流し込んだ。
不味いはずのスープが、五臓六腑に染み渡るように美味かった。
「――どうだ、美味いか? モルフィ」
看守長は哀れみの混じった冷酷な声で、上から語りかけてきた。
「白状すれば、その美味いスープを毎日、腹一杯に飲ませてやるぞ。
さぁ、ココナッツのお前に送ったネズミの名前を吐け」
一瞬。脳の芯が激しく揺らぎ、本能が「言え」と叫んだ。
名前を一つ口にするだけで、この凄絶な飢えから今すぐに解放されるのだ。
だが、胃袋に熱が戻ったことで、俺の泥に塗れた理性が、奇跡的に目を覚ました。
ここでオズレットを売れば、俺はただ飯のために魂を売った、正真正銘の負け犬になる。
俺は器を握りしめたまま、何も喋らなかった。
ただ、血走った目で看守長を地の底から睨みつけ返した。
それが俺の、精一杯の「拒絶」だった。
看守長は、すぐに表情を失った。
「……そうか。底知れない馬鹿だな、お前は」
看守長は冷酷に吐き捨てると、俺の手から器を奪い取り、残っていたスープを目の前の石畳へと、これ見よがしに乱暴にブチまけた。
そしてそれを踏みつけた。
ジチジチと床の泥と靴のシミに混ざって消えていくスープを、俺はただ見つめることしかできなかった。
「ならば、そのまま丸二年間、誰の助けも得られぬまま餓死するがいい」
冷徹な宣告と共に、鉄扉が完全に閉じられる。
今回は、それだけでは終わらなかった。
扉の外にあるレバーが引かれ、覗き窓や僅かな隙間から漏れていた廊下の明かりすらも、完全に遮断されたのだ。
完全なる無音。
そして、一寸先も見えない、真の暗黒。
五感を奪う精神的拷問の中、俺は一人、冷たい床の上に再び取り残された。




