15.教え
バロミロに言われた通り、俺は独房の冷たい床の上に胡坐をかき、深く目を閉じて瞑想を試みた。
だが、これまでただ本能の赴くままに力を振るってきた身だ。
精神を集中させようとすればするほど、暗闇の中で雑念ばかりが渦巻き、具体的な手応えなど何も得られなかった。
それでも諦めず、呼吸を整えて己の内へと意識を沈めようと模索を続ける。
どれほどの時間が流れただろうか。感覚が麻痺し、次第に脳の芯が心地よい疲弊感に包まれてウトウトとし始めた。
強烈な、抗いがたい眠気。
(……チッ、駄目だ。頭が働かねぇ。また、明日からやり直そう……)
思考が完全に途切れ、俺はその場に崩れ落ちるようにして深い眠りへと落ちていった。
気がつくと、俺は見渡す限りの漆黒の世界に立っていた。
「……これが精神世界ってやつか?」
その暗闇の向こうから、音もなく羽ばたき、俺の目の前へと舞い降りてきたものがあった。
――それは、異様なほどに巨大な「蛾」だった。
俺の身体をも覆い尽くさんばかりの巨大な二対の翅には、こちらをじっと見つめ返すような、不気味で鮮烈な「眼の紋様」が刻まれている。その紋様自体が、見つめているだけで精神を狂わせる呪術的な魔力を放っているかのようだった。
キチチチチ、キチチチ……と、鋭い口器を鳴らしながら、無数のレンズが並ぶ黒い複眼で、その怪物は俺の姿をじっくりと観察するように見つめてきた。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出すような悍ましい外見のはずだった。
だが、不思議と嫌悪感や恐怖の類は一切湧いてこなかった。
それどころか、まるで自分の手足を見るかのような、奇妙な懐かしさと愛おしささえ感じていた。
「……お前が、俺の背中に宿り、力を貸してくれていた悪魔か?」
俺の問いかけに応じるように、巨大な蛾は肯定を表すようにバサリと大きく翅を動かした。
「俺の言葉が分かるのか。……へぇ、大したもんだな」
俺が少し感心して呟くと、悪魔はまるで子供のように嬉しそうな気配を漂わせ、翅の紋様を怪しく明滅させた。
「一つ聞きたい。どうして、数ある人間の中から俺を選び、代償もなしに契約してくれたんだ?」
しかし、その抽象的な質問に対して、悪魔は困ったように複眼を彷徨わせ、ただキチチと小さく鳴くだけだった。
どうやら、複雑な概念を言葉で返すことはできないらしい。
(なるほど。イエスかノーで答えられる単純な質問の方が良さそうだな)
俺は思考を切り替え、次の言葉を投げかけた。
「お前は、俺を無条件で契約者に選んだことを、後悔していないか?」
今度は迷わなかった。
先ほどの比ではないほど、激しく、力強く、部屋全体に風が巻き起こるほどの圧を伴って、悪魔は肯定の羽ばたきをしてみせた。
「そいつは心強い。……じゃあ、俺はここから、もっと強くなれるか?
あの第四使徒すら噛み殺せるほどに」
バサァッ!! と、狂喜を孕んだ暴風が深淵を吹き抜ける。もちろん、答えはイエスだ。
悪魔はそのまま俺の頭上へと音もなく飛び上がると、細く、しかし鉄の爪のように強固な脚を、俺の両肩へとそっと乗せてきた。
その瞬間、爪の先から、冷たくも脈動するドス黒いエネルギーの流れが、俺の細い血管へとダイレクトに流れ込んできた。
手首の純銀の手枷が悲鳴を上げるようにジチジチと火花を散らすが、内側から溢れ出る力の奔流を止めることはできない。
(これが……人間に非ざる者、魔人にしか扱えないという『魔力』の輝きか……)
魔人。それは人間でありながら、悪魔や精霊、あるいは幻想の魔獣といった超越種の力をその身に取り込んだ異端の存在の総称だ。
かつておとぎ話で聞かされた、ドラゴンの返り血を浴びて一騎当千の勇者となった男の伝承も、おそらくはこれと同じ類の現象なのだろう。
これほどの絶対的な力を持ちながらも、歴史の中で魔人が人類を完全に淘汰できなかった理由はただ一つ。
奴らが「純銀」と「聖塩」の呪詛によって、その異能を強制的に無効化されてしまうという致命的な弱点があるからだ。
魔人を殺すための銀弾や聖塩の触媒は、通常の兵器よりも多少値は張るが、国家が本気になればいくらでも安価に大量生産できる。
だからこそ、どれほどの魔人だろうが、数の暴力と対策兵器の前には敗れ去るのが世の常だった。
(だが、そんな弱点、これほどの力を前にすれば些細な問題だ……)
俺は手首の枷を焼き切らんばかりに駆け巡る、悪魔の濃厚な魔力の味を全身で堪能していた。
暗黒の独房の中、俺は己の深淵に潜む最高の相棒との対話を、心の底から楽しんでいた。
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次の月曜日、最奥の面会室で再びモルフィと対面したバロミロは、アクリル窓の向こう側で息を呑んだ。
その双眸に、明確な驚愕の色が走る。
手枷の呪詛によって出口を完全に塞がれているはずのモルフィの肉体から、ドス黒く濃厚な魔力が陽炎のように揺らめき、体内で凄まじい密度をもって循環していたからだ。
(想定以上だ……! 瞑想を教えただけで、わずか数日でここまで悪魔の深淵と同期してみせるとは……!)
バロミロは即座に、この状況の危険性を察知した。
光も当たらぬ劣悪な独房に幽閉されているはずの囚人が、魔力に満たされたことで、一人だけ恐ろしいほどに肌に艶が戻り、生命力の塊のようになっている。
これでは勘のいい看守に見咎められるのは時間の問題だった。
「モルフィ。今からお前の体内で暴走しかけている魔力を、俺が定期的に吸い上げる」
「……どうしてだ? せっかく手に入れた力だぞ」
怪訝そうに眉をひそめる俺に、バロミロは真剣な眼差しを向けた。
「お前の内に眠る魔力は、あまりにも強大すぎるのだ。
ただ、その性質が純粋な直接戦闘向きではないというだけでな。
手枷に無理やり抑え込まれたその濃密な気配は、やがてこの島に収監されている他の鋭敏な『悪魔付き』たちの警戒心を刺激する。
目立ちすぎるのは破滅を招くぞ」
「……なるほどな。分かった、あんたに任せるよ」
俺が納得したのを見て、バロミロはアクリル窓のわずかな隙間から、節くれ立った無骨な手をこちらへと翳した。
「俺もまた、お前と同じ悪魔付きだということは話したな」
「あぁ」
「この呪いの手枷がある以上、外に向けて異能を放つことはできん。
だが、肉体が直接触れ合う距離、あるいはこの僅かな魔導の隙間を通じて、同質のエネルギーを『捕食』することだけは可能だ」
バロミロの手の平が淡く発光した瞬間、俺の全身の血管から、せき止められていた熱い奔流がじわじわと逆流し、奪い取られていく奇妙な感覚に襲われた。
「おぉ……っ」
これが、他者に魔力を吸い上げられる感覚か。
体中がチクチクと痺れるような未知の体験に、俺は恐怖を抱くどころか、むしろ新たな世界の理に触れたような高揚感で心を躍らせていた。
(思ったよりも順調だな。これなら外見の違和感も消せるし、儂自身の魔力タンクの底上げにも――むっ!?)
バロミロが内心でそう呟いた、まさにその刹那。
俺の深淵に潜む、あの巨大な「蛾の悪魔」が、主の危機を察知して猛然と防衛本能を爆発させた。
魔力のパスを逆流させるようにして、バロミロの手の平へ向けて、精神を狂わせる呪術的な「警告の鱗粉」を放ったのだ。
アクリル窓の向こうで、バロミロの身体がビクリと強張る。
(――蛾の悪魔……!? いや、いたとしても精神干渉系の小規模な悪魔のはずだ。
悪魔の強大さは世界での恐れによって比例するのに。
なぜこれほどの質量と、神の領域に迫るほどの凶悪な魔力を有している……!?)
バロミロの困惑を余所に、俺の背後の影から蠢き出た一対の不気味な翅が、今まさにバロミロの魂ごと喰らい尽くさんと、完全な攻撃態勢へと移行しようとしていた。
「――安心してくれ、モルフィの悪魔よ。私はお前の契約者に危害を加えるつもりはない」
バロミロは声を落とし、俺の影の奥にいる怪物へと、真っ直ぐに語りかけた。
「これはこいつの身を守るためだ。
今、外に向けてその牙を剥けば、すべての計画が水の泡になる。
大人しく私に魔力を委ねることが、結果的にお前たちの為になる」
その言葉が理解できたのだろう。
俺の悪魔は、まるで人間の言葉を完全に咀嚼したかのように、キチチ、と小さく鳴いて瞬時に殺気を霧散させた。
そして、大人しく従順に、バロミロの手へとその膨大な魔力を吸われ始めた。
(人間の複雑な交渉を理解するほどの知性まであるというのか。一体何者なんだ、この悪魔の正体は……?)
バロミロは背筋に冷たい戦慄を覚えながらも、その底知れぬ疑問を胸の奥に押し込み、俺の身体から溢れ出るドス黒い魔力を静かに吸い上げ続けた。




