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モルフィの軌跡  作者: オレノマツ
第一章 監獄島編

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11.脱走

気絶した看守の身体から身ぐるみを剥ぎ、制服と鍵束を奪って変装しようと指先に力を込めた、その瞬間だった。

背後の通路から、オズレットの悲鳴を聞きつけた別の看守たちの荒々しい足音が、反響しながら響いてくる。


「おい、そこの受刑者! 何をしている、手を上げろ!?」


変装する時間はない。

俺は看守の腰から黒い軍用ナイフだけを素早く毟り取ると、腰を抜かしているオズレットをその場に残し、弾かれたように走り出した。

直後、獣道の狭い通路に、鼓膜を激しく震わせる銃声が轟いた。


背後の壁や床に弾丸が着弾し、火花と砕けた石の破片が俺の背中に容赦なく降り注ぐ。

跳開弾の恐怖に背筋を凍らせながらも、俺は上体を低く保ち、ジグザグにステップを踏んで照準を狂わせながら遮二無二に疾走した。


行く手を阻むように現れた、要塞の敷地内を流れる排水用の急流川。

迷っている暇はなかった。

俺は崖を飛び越え、頭からその激流へと飛び込んだ。


「――ぶはっっ! げほっ!」


あまりの冷たさに心臓が止まるかと思った。

濁流は凄まじい質量で俺の身体を押し流し、洗濯機のように上下の感覚を奪い去る。

水中で無数に突き出た岩に背中や脇腹を何度も強打し、肺の空気が強制的に搾り取られた。

窒息寸前になりながらも、奪ったナイフだけは死守し、必死に水を掻いて下流へと流される。


なんとか看守たちの執拗な追っ手を視界から撒くことには成功した。


浅瀬に辿り着き、這うようにして泥だらけの岸辺へと這い上がる。

咳き込んで水を吐き出しながら、目指すは海岸の一択だった。

だが、そのためには人の手が入っていない原生林――鋭い棘を持つ植物が密集する深い森を突っ切らなければならなかった。


この悪魔の銀の枷のせいで、呼吸をするたびに手首の皮膚が焼け付くように痛む。


それでも野生の勘だけを頼りに、道なき道を疾走した。


生い茂る硬い枝葉が容赦なく顔面を切り裂き、鋭い棘が肉を抉って全身から血が噴き出す。


泥と汗と血が混じり合って視界を塞ぐが、足の筋肉が千切れそうになろうとも、精神力だけで肉体を強制駆動させた。


息が完全に切れ、喉の奥から鉄の味が競り上がってきた頃、ようやく鬱蒼とした緑のカーテンを突き抜けた。

視界が一気に開ける。

眼前に広がる純白の砂浜、その波打ち際に、場違いなほど小さくはあるが豪華な船が停泊しているのが見えた。


(――奇跡だ……!)


神など信じていない俺だが、この瞬間ばかりは天を仰ぎそうになった。

俺は残った全力を、動かなくなった足に鞭打って注ぎ込み、爆発的に砂を蹴って、船の甲板へと決死の跳躍を敢行した。


だが、着地の衝撃を逃がす暇もなく、俺の目に飛び込んできたのは異様な光景だった。


「……女、だと……!?」


そこにいたのは、男しかいないはずの監獄島にはおよそ不釣り合いな、肌の露出が極端に多い、妖艶な薄絹の衣装を纏った美しい女たちだった。

俺よりも歳は少し上だろうか。


お互いが呆然とした俺の視界の隅、船の奥から、突如として空間が歪んだかのような錯覚を覚えた。


――否、錯覚ではない。

視認すら不可能な、凄ましき速度の「質量」が肉薄していた。


回避の動作はおろか、視線を動かすことすら許されなかった。

気づいた時には、鋼鉄の万力のような巨大な手が俺の顔面を鷲掴みにしていた。

そのまま、圧倒的な質量と重力に従って、俺の身体は砂浜の地面へと凄まじい勢いで叩きつけられた。


ドガァンッ!! と、鈍い衝撃音が頭蓋に響く。

脳が激しく揺れ、上下の感覚が完全に消失する。

鼻腔と口内に、砂のざらついた感触と、溢れ出た生暖かい血の味が広がった。

背骨がきしみ、指先一行動かせないほどの衝撃が全身を突き抜ける。


「……随分と久しいな、薬物の小僧。相変わらず地を這うのがお似合いだ」


「て、てめぇ……は……っ!!」


「てめぇとは失礼な奴だ。

 ……そうか。

 あの場では名乗っていなかったな。

 中央教団が第四使徒、スタークだ」


極厚のフードの奥から覗く、長い髪と凍てつくような双眸。

それは、大陸で俺の薬物ビジネスをいち早く破壊し、逃走する俺の前に文字通り「壁」として立ちはだかった、あの忌まわしい男だった。


あの時は不意に悪魔の力を使い、何とか窮地を脱したものの基本的に一対一で勝てる相手ではなかった。


「ふ、ふざけるな……っ! なんで、お前がこんなとこにいやがる……!?」


砂に顔面をめり込ませ、へし折られそうな首の痛みに耐えながら呪詛を吐く俺を、スタークはただの石ころを見るような冷淡さで見下ろしてきた。


「なぜ、はこちらのセリフだ。

 お前はただの受刑者だろう。

 大人しく檻の中で朽ち果てていればいいものを。

 罪を償うのがお前の仕事だろう。

 お前がどれだけの人間の人生を狂わせたのかわかっているのか?」


「知るか!そんなもの!!」


そこへ、息を切らせ、銃を構えた看守たちが大挙して砂浜へと雪崩れ込んできた。

だが、俺を片手で容易く組み伏せているスタークの背中を見るなり、看守たちは一瞬で顔面を蒼白にし、直立不動の姿勢をとった。

銃口がガタガタと震えている。


「す、スターク様……っ!? お疲れ様です! 巡回のご予定は明日のはずでは……!」


「……久しぶりに視察に訪れてみれば、この有り様か。

 悪魔の力を封じた一人の囚人の脱走すら満足に防げんとは。

 貴様らは一体、ここで何の訓練を受けている?」


スタークの全身から放たれる、物理的な圧力を伴った凍りつくような怒気に、看守たちは蛇に睨まれた蛙のように平伏した。


「まぁいい、身内の不始末は後だ。

 私はこれから、看守長と私的な要件を済ませる。

 ……この虫ケラの処理は、お前たちに任せた」


「は、了解いたしました!!」


スタークが俺の頭から無造作に手を離し、露出の高い女たちを引き連れて、要塞の総督府へと優雅に歩き出す。

あとに残された俺を待っていたのは、使徒の前で大恥をかかされ、怒り狂った看守たちの、理性を失った凄惨な八つ当たりだった。


「このクソガキがぁっ!! よくも恥をかかせやがったな!!」


容赦のない鉄板入りのブーツが、硬質の警棒が、何発も、何十発も俺の身体を執拗に殴りつけ、蹴り飛ばした。

肋骨がパキパキと折れる嫌な音が体内で響き、内臓が押し潰される激痛が襲う。


だが、その肉体的な破壊を遥かに凌駕する怒りと屈辱が、俺の胸を焼き尽くしていた。


スタークの後ろを歩くあの女たちが、惨めに地を這い、血を流して無様にのたうち回る俺を、まるで汚物か哀れな家畜でも見るかのような、冷徹で蔑みに満ちた目で見下ろしていたからだ。


(……スターク……中央教団……っ!!)


俺は意識が暗転していく絶望の淵で、その名を魂の骨の髄にまで深く刻み込んだ。

この喉を焼くような屈辱の全てを、いつか必ず、何百倍にしてその病人みたいな顔面に叩き返してやる。


そういって意識が無くなっていった。

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