8.縛られる
高等学院の新しい学期が始まって、もうすぐ一月が経とうとしていた。
ハスアンが乗り込んできたあの食事会以来、ダレストン先生の姿を見ていなかった。
その代わりのように、学院内でも外でも、ハスアンがわたしの側を離れないようになった。
わたしが歴史学の授業に行く時は、担当する教室の前まで送る。
授業が終わる頃に教室まで迎えに来る。
ハスアンが幾何学の授業に行く時は、教員室から出ないように言われた。
二人の授業担当時間が重ならないように、圧力をかけたんじゃないかと先輩教師に言われて鳥肌が立った。
そんなことに、貴族の権力を使うなんて……。
いえ、まだそうと決まったわけじゃないけれど。
知るのが怖くて、ハスアンに真実を聞けずにいた。
学院での一日が終わると、ハスアンがわたしの手を引いて、教員寮まで送って帰る。
そして、次の朝にまた、教員寮まで迎えに来る。
ハスアンは王都に屋敷があるから、わたしを送り届けた後で帰宅していく。
そんな生活が、この一ヶ月続いていた。
「リリンカ先生ぇ、知ってますぅ?」
圧力云々の話を聞かせてくれた、保健医のアスナ先生が話しかけてきた。
「何ですか?」
明日から始まる中間試験の準備をしていたわたしは、手元から視線を上げずに答えた。
「サラジ先生がねぇ。学院長先生に直訴したんですってぇ」
「直訴?」
ふふっ、と笑って、アスナ先生が続ける。
「リリンカ先生をぉ、自分の助手につけろってぇ」
「はっ?」
思わず漏れた声に慌てて、顔を上げた。
桃色の瞳を細めて、アスナ先生が楽しそうにわたしを見ていた。
真っ赤な紅を引いた唇を、ニヤリと上げて口を開く。
「だからねぇ?いつでもどこでもリリンカ先生と一緒にいたいサラジ先生はぁ、歴史学の先生である恋人をぉ、幾何学の自分の助手につけろってぇ」
歌うように語尾を伸ばしながら、クスクスと笑うアスナ先生に悪気はない。
ただ、面白そうなことが好きなだけの人だ。
「それ、いつのことですか?」
声が震えそうだった。
そんなに、わたしのことが信用できないと言うの?
「先週の半ばくらいぃ?あたしもぉ、他の先生から聞いただけだからぁ。ただの噂話ですけどぉ」
「それでも、他の先生の耳に入ったということは……」
「学院の中でもぉ、結構な数が知ってるでしょうねぇ」
がたん、と音を立てて立ち上がる。
あまりの羞恥で耳が焼けるように熱い。
どうして……。
わたしは夢だった教師を諦めて臨時講師になったのに、それすら許してくれないの――?
「アスナ先生、教えてくださってありがとうございます」
「どういたしましてぇ」
学院長先生は王城に呼び出されたとかで、今日は不在だ。
問い質すならハスアンだった。
教員室を飛び出そうとしたところで、大きな人影にぶつかりそうになった。
「っす、すみません……!」
避けようとして体勢を崩しかけたわたしの肩を、温かい手が支えてくれた。
お礼を言おうと顔を上げると、目尻を下げた黄金色に視線がぶつかる。
「……ダレストン先生?」
「そんなに慌てて、どうしました?」
久しぶりに聞いた低い声が、耳に心地いい。
「ちょっと、私用があって」
「私用?」
「そうだわ。ダレストン先生、サラジ先生を見かけませんでしたか?」
「あの男を、探しているのか?」
声の温度が下がった。
いえ、周囲の空気まで凍りついたような錯覚を起こす。
「ダレストン先生?」
「お前を縛りつけるだけの男に、何の用がある?」
「え……あの」
「あぁ、いや。今のは忘れてくれていい。……まだ早い」
「ダレストン先生?」
最後が聞き取れなくて、その瞳を見上げる。
以前見たのと同じ、優しげな色を浮かべていた。
「サラジ先生は見ていないが、一緒に探しましょうか?」
「いえ、大丈夫ですわ」
一緒にいる時にハスアンを見つけてしまっては、また面倒なことになってしまいそう。
ダレストン先生の申し出を丁寧に断って、足早に廊下を歩き始めた。
そんなわたしの背中を、ダレストン先生が焦げつきそうな視線で見ていたことになど、少しも気づかなかった――。




