9.子爵令嬢の登場
廊下を歩く教師や生徒たちに、ハスアンを見かけなかったかを聞いて歩く。
一緒に働く教師たちからは呆れたような視線を。
授業を受け持つ生徒たちからは憧れのような視線を。
どちらも苦く受け止めながら、図書室へと足を進めた。
真鍮の大扉を開いて、中をそっと覗く。
今日は授業が半日で終わったから、試験勉強をしている生徒たちが中央の机に何人か陣取っていた。
ハスアンを資料棚の近くで見たと聞いて来てみたけれど。
彼も、明日からの試験の準備に忙しいはず。
ここまで来て、足が震えてきた。
また、怒られるのかしら。勝手に一人で教員室から出てきたと。
いえでも、やはりきちんと聞いておかなくてはいけないわ。
こんなにもやもやした気持ちのままで、試験問題や生徒たちに向き合えない。
踵の低い靴は、それほど足音を立てずにすむ。
ゆっくりと、勉強している生徒たちの側を通り抜けて、奥の資料棚に向かう。
「――ら、どうし――」
「言った――どけ」
ぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。
図書室だから、大声で話さないのは当然だけど、何か言い争っているような気配も感じる。
胸騒ぎがして、大きな本棚の角を曲がった。
ハスアンの華奢な体に、制服姿の女子生徒が抱きついていた。
しっとりとした金茶の髪を結い上げ、ここから真っ白なうなじが見えている。
こちらに背を向けている女子生徒の制服は、新入生の新しいものに感じられた。
動きを止めたわたしに気づいたハスアンが、瞳を見開いて抱きついている生徒を引き剥がした。
「……ハスアン?」
「ちが……っ、これは!」
焦ったようなハスアンの声に、女子生徒がゆっくりとこちらを振り返った。
大きな榛色の瞳が、わたしを見た瞬間に眇められた。
「どなた?」
わたしが聞きたいんだけど。
首を傾げてわたしの返事を待っている彼女は、見るからに貴族のお嬢様だった。
これは、わたしから名乗らなければならないのかしら。
諦めて一つ息を吐いたわたしは、仕方なく口を開いた。
「歴史学のリリンカよ。貴方たちは、こんなところで何をしているの?」
「リリンカ……あぁ、やっとお会いできましたわね」
「えっ?」
くるりとこちらへ向き直った彼女が、はち切れんばかりの豊満な胸を反らした。
「初めまして。わたくし、フランソワーズ=ボンヌですわ。子爵家の娘ですの」
制服の胸元には、学年を示す胸章がつけられている。
思った通り、今年入学してきた新入生のようだ。
「そして、こちらにいらっしゃる、ハスアン=サラジ様の婚約者ですわ」
自信たっぷりに告げられた内容に、思考が止まった。
こん、やく、しゃ――?
指先が痺れる。
何を言われているのか、わからなかった。
いえ、言葉の意味はわかる。けれど、頭が理解を拒否しているみたい。
そんなわたしに何を思ったのか、ハスアンの腕に自分の腕を絡ませた彼女が続ける。
「学生時代の火遊びならば大目に見ましたけれど。卒業して、働くようになってもまだ、平民出の小娘に入れあげていると聞きまして」
小娘って。
「きちんと手綱を握り直さなくてはならないと思って、こうしてお話しているところですのよ」
「……やめろ」
消え入りそうな声で、何とか彼女の手を引き剥がそうとしているハスアンの言葉など、耳に入らなかった。
「貴方、ご存知なかったんでしょう?貴族の令息というものは、早くから婚約者がいるものですのよ」
気の毒そうに見つめられ、顔がカッと熱くなった。
「まさか、資金援助をしている我が家に、婚約解消の申し入れをしてくるなんて。呆れて物も言えませんわね」
「離せ、フランソワーズ」
「リリンカさんのことは、妾にでもするおつもりだったのかしら。婿入りする予定の身で、大それたことを考えられましたわね」
「手を離せっ。僕に触るな!」
絡みつく腕を振り解いたハスアンが、こちらへ手を伸ばしてきた。
嫌だ。触られたくない。
何も考えたくなくて、パッと後ろを向いて走り出した。




