10.思考の渦
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
どこに行けばいいのかわからない。
でも立ち止まれない。追いかけてこられても困る。
このまま帰ればいいのかしら。
あぁ、教員室に荷物を置いたままだわ。
仕事も途中なのに、投げ出すの?
でも何も考えたくない。
子爵令嬢の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
婚約者。
資金援助。
婿入りの予定。
そして――。
「学生時代の、火遊びって……」
泣けばいいのか、笑えばいいのかわからなかった。
さっきまで、真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いていた廊下を、肩を落としてとぼとぼと歩く。
ハスアンは、二年先輩だった。
田舎から出てきたばかりだったわたしに、王都の色々なところを案内してくれた。
最初から優しかった。
一目惚れだったと言われて、とても嬉しかった。
学生時代に恋人になってほしいと言われたけれど、勉強に集中したかったわたしは一度断った。
それなら待つと言ってくれた。
卒業したら、一緒に学院で働こうと誘ってくれて嬉しかった。
晴れて恋人同士になれて、浮かれていたのかしら。
彼に縛りつけられているように感じたことは何度もあったのに、愛情だと思い込んでいた。
違ったの――?
貴方は、わたしを遊びの女だと思っていたの?
物珍しい玩具か、所有物のように思っていたの?
考えが纏まらない。
すれ違う生徒たちが、心配そうな視線を向けてくる。
こんなことでは、ダメだわ。
もう、感情に振り回されていい子ども時代ではないのだから。
きっ、と視線を上げて、教員室を目指した。
泣くのは後。落ち込むのも後よ。
目の前のやるべきことを、きちんと片づけなくては。
教員室の扉を開ける。
アスナ先生の姿はなくなっていた。
代わりに、フェンヤ先生が机に向かっている。きっと、試験問題の最終確認をしているのね。席を外して申し訳ないわ。
自分の机に戻る。
チラリとフェンヤ先生が視線を向けて、一度逸らした目をわたしに戻した。
銀縁眼鏡の向こうで、新緑の瞳が見開かれていた。
「リリンカ先生?どうかしたの?」
「何でもありませんわ。少し、調べ物で席を外しました」
いつもと変わらない声を出せたはず。
机に広げていた試験問題の用紙を確認する。
ほとんど作り終わっていたから、フェンヤ先生に渡すだけで大丈夫。
早く仕事を済ませて、この場から逃げ出したい。
「顔色が悪いわよ。体調がよくないのなら、お帰りなさいな」
穏やかな声に心が揺り動かされるけれど、首を横に振った。
「明日から中間試験ですから。準備は終わらせますわ」
「無理をしないのよ?」
「ええ。こちら、わたしの担当分の試験問題ですわ」
机の上で用紙をとんとんと揃えて、フェンヤ先生の元に持っていく。
手渡す指先が震えないように、必死だった。
何か問いたそうなフェンヤ先生の視線から逃げ、問題の確認をしてもらう。
「ええ、大丈夫そうね。これは明日まであたくしが管理しておきますから。貴方はもう、お帰りなさい」
「いえ、大丈夫で……」
「先輩の言うことは聞くものよ。もう、今日の授業は終わっているのだし、とくに残務もないのだから。明日に備えて体を休めなさい」
「……」
教員寮に帰って、一人で過ごすのが怖かった。
考えなくていいことまで、考えてしまいそう。
「……体調管理も、仕事の内ですわよ」
フェンヤ先生の諭すような言葉に我に返った。
そうだ。指摘されるほど顔色がよくないのなら、これ以上心配をかける前に帰るべきなのだ。
「申し訳……」
「謝らない。帰って、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。明日は元気に学院へいらっしゃい」
母のような温かい言葉に、堪えていた涙が零れそうだった。
こんなところで泣くなんて、恥ずかしい真似はできない。
やっぱり冷静ではないのね。
醜態を晒す前に、わたしは退散することにした。
「では、お言葉に甘えますわ。明日は万全で参ります」
「そうしてちょうだい。食事は食べられそう?」
正直、食欲などなかった。
けれど、そう言えば余計に心配をかけるから、曖昧に頷いておいた。
「はい。何とかしますわ」
席に戻って、荷物を纏め始める。
鞄と上着を手に、フェンヤ先生に挨拶した。
「それでは、お先に失礼致しますわ」
「えぇ。気をつけてね」
「では、私が送って行きましょう」
教員室の入口から掛けられた声に、息が止まる。
恐る恐る扉を見やると、壁に凭れかかった長身の男が、黄金色を細めてこちらを見ていた。




