71.闇の蝶に包まれる
武術練場に、黒い蝶の群れが飛び込んできた。
すべてを闇で覆い隠すように、カリファーとわたしの体を包み込んでいく。
世界から隠されたことで、ほうっと息を吐き出した。
カリファーが、わたしの首筋から唇を離さずにいる。頭の奥が痺れてきた。
「……ナスティディア様、遅くなりました」
密やかな声が、わたしの名前を呼ぶ。ぼんやりとしていて、よく聞き取れない。
「セ、レーヌ……?」
「主を屋敷へお運び致しますので」
そっと、肩に手を乗せられたのを感じる。でも、動けなかった。
指先から、どんどん力が抜けていく。血を吸われすぎたのかしら。
ぼんやりとした頭で、カリファーの閉じられた瞳を見つめる。
「……カリ、ファー」
掠れた声で呼びかけると、薄っすらと目が開かれた。
「ご主人様、そろそろナスティディア様をお離しください。血を失って倒れてしまわれます」
冷静な声に、カリファーがますますわたしの首に噛みつく。
溜息を吐いたらしいセレーヌが、わたしの肩から離した手をカリファーに向けた。
「レスト、そちらを」
いつの間にか、レストの気配も増えていた。
ぐいっ、と力ずくでカリファーの体が引き離された。わたしの首筋に、彼の牙の感触と生温かい血が流れる感覚が残っている。
「カ、カリファー!」
上手く力の入らない体を、必死に引き摺る。
「ナスティディア様、大丈夫です。すぐに貴方様の血を与えていただけましたので、危篤にはなりません」
「ですが、このままでは治療もままなりません。貴方様もともに、屋敷へとお連れ致します」
震える指を、カリファーに向けて伸ばす。
「……ディ、ア……ともに……」
指先に、カリファーの冷たい指が触れた。すべての熱を、持って行かれてしまいそう。
血に濡れた彼の唇に、そっと口づけた。
「一緒に、行くわ」
わたしの答えに満足したのか、ようやくカリファーが力を抜いたのがわかった。
目を閉じているように言われて素直に従うと、水の中を進むような不思議な感触を全身に感じた。
カリファーと手を繋いだまま、ぎゅっと力を入れる。
次の瞬間には、お屋敷に着いていた。
「ご気分は悪くありませんか?」
セレーヌに問われて首を傾げる。
「だいじょ……」
答えかけて、ぐらりと体が揺れた。
「あぁ、少し貧血を起こしておられますね。影に酔ってはおられませんか?」
確かに少しふらつくけれど、動けないほどではなかった。黙ってぼんやりしていると、レストがカリファーの体を抱えて運んで行くのが視界に入った。
あの大きなカリファーを、軽々と……。
「失礼致します」
セレーヌの手の平が、額に押し当てられた。
「熱はないようでございますね。これより、私どもは主の治療を致しますが、付き添われますか?」
問われてハッとした。
「カリファーから離れるなんて、できないわ」
わたしの答えに頷いて、セレーヌが優しく手を取ってくれた。
そこで、気づく。
「あの、カリファーを刺してしまった子は、どうなったかしら」
あ、聞き方を間違えたわ。セレーヌの視線が、凍りつきそうに冷たいものになってしまった。
「いえ、庇うわけではないの。でも、あのまま置いてきたのだったら、カリファーが倒れた生徒をそのままに帰ったと思われないかしら」
少しだけ、セレーヌが穏やかな雰囲気に戻った。
「お優しいナスティディア様。それほど心配は要りませんが、レストが上手くやるでしょう」
「レストが?」
手を引かれて、カリファーの寝室へと歩き出す。
「主に牙を剥いた子どもを、我々が野放しになどするはずがございません」
「野放し……」
「ですが、そんな些事よりも、主の治療を優先致します」
些事って。
でも、わたしも冷たいのかしら。あの子爵令息よりも、カリファーの方がずっとずっと、大切だった。
カリファーの寝室で、大きな寝台に長身の体が横たえられていた。
側でレストが服を切り裂いている。
「ナスティディア様、こちらへ」
声を掛けられえて、恐る恐る近づく。
きつく目を閉じたカリファーの顔色が真っ青で、泣きそうになってくる。いいえ、泣いている場合ではないわ。
「まずは、手を握って差し上げていてください」
てきぱきと布を切り裂き、短剣を慎重に避けながらレストがカリファーの介抱をしている。
力の抜けた手を、そっと握りしめる。
「カリファー」
「……ディア……心配、するな」
「心配はするわ。でも、貴方とセレーヌたちを信じる」
そうよ、彼はこんなことで消えたりなんかしないはずだわ。
わたしには想像もつかない長い長い時を、生きているのよ。
「ちっ、忌々しい」
レストの舌打ちに驚いて見上げる。
「失礼致しました。しかし、これは……」
その視線を辿ると、カリファーの脇腹に深々と突き刺さった短剣が見えた。
「我らでは抜けませんね。あの子ども、こんなものをどこから……」
「レスト。わたしにできることはある?」
彼らが触れられないと言うのなら、わたしがカリファーを助けるわ。
「いえ、ですが……」
音もなく近づいてきたセレーヌが、短剣を見て眉を寄せた。
「ナスティディア様」
「えっ?」
「お覚悟を決めていただかなくては、ならないかもしれません」
「……覚悟?」
「我らの主を、夜に生きる王を……人にしてくださいますか?」
問われた言葉の意味を理解するのに、長い長い時間がかかった。




