70.銀の短剣
ゼネフォラ=イアン子爵令息の持っていた木剣が弾き飛ばされ、宙を飛んで壁際の床に突き刺さった。
何が起きたのか、よくわからなかった。
武術練場で対峙して、お互いに頭を下げた二人が木剣を構えたところまでは確かに見ていた。
大振りに構えた子爵令息に対して、カリファーは身動ぎ一つしなかった。
勝利を確信したかのように子爵令息が向かって行って、次の瞬間、彼の木剣は後方に飛んでいた。
唖然としたままの令息の首元に、カリファーの持つ木剣がピタリと突きつけられていた。
ギギギ、と音がしそうな動きで、子爵令息が振り返ろうとする。
「ほら。今の動きでもう、お前の首は切られたぞ」
「っ!」
息を吸い込む音が、やけに大きく聞こえた。
スッ、とカリファーが木剣を引き、令息から体を離す。
がくがくと膝を震わせながら、その場に崩れ落ちた子爵令息が、信じられないものを見るような目でカリファーを見上げている。
「ど、どうして……剣術など、されていなかったでしょう?」
「それがどうした?」
「自分がっ、負けるはずが……っ!」
「目で見えるものだけを、信じるべきではない」
静かな言葉に唇を噛む子爵令息をその場に残して、カリファーがこちらへ歩いてきた。
両腕を広げて待っていると、驚いたように目を見開いて抱きしめてくれた。
「いいのか?あの坊やに見られるぞ」
「わたしは貴方のもので、貴方がわたしのものだと、わかってもらわなくてはね」
ああいう生徒は、きっと思い込みが激しい。きちんと想い合っているところを見せないと、納得しないような気がするわ。
「それにしても、強かったわね」
「剣はそれほど得意ではないんだがな」
「可哀想よ」
自分の剣術に自信があっただろう子爵令息が、さすがに気の毒になった。
「さて、褒美を貰わんとな」
「あ、待って」
カリファーの腕から抜け出し、呆然としている男子生徒に声を掛ける。
「イアン子爵令息」
ハッとしたように顔を上げた彼の顔を、正面から見つめる。
「わたしを想ってくれてありがとう。けれど、わたしは彼を愛しているの。だから、貴方の想いには応えられないわ。ごめんなさい」
カリファーに肩を抱かれたままのわたしを、表情を歪めて見上げる令息にゾッとした。
どこかで見たことがあるような、嫌な表情だった。
視線を逸らし、体ごと後ろを向く。
「行きましょう、カリファー」
「ああ」
そのまま歩きだそうとしたところで、隣のカリファーの体が強張ったのを感じた。
どうしたのかと顔を上げようとすると、ぐいっと腕の中に閉じ込められた。
ドンッ、と鈍い衝撃が伝わる。カリファーの背中に、何かの圧力がかかったよう。
「……っ、ぐ……」
「カリファー!?」
聞いたことのない苦悶の声に、恐ろしくなる。何が起きたの――?
わたしを抱えたまま、ゆっくりとカリファーの体が滑り落ちていく。
慌てて支えようとしても、わたしでは支えきれない。
カリファーの肩越しに、虚ろな瞳をした子爵令息の姿が目に入った。
「……すまん、油断した」
「え……」
子爵令息の手が血に染まっていた。誰の、血……?
そっと、カリファーの背中に腕を回す。
ぬるりとした感触を手の平に感じた。
「カリ、ファ……」
「くそ……あのガキ……銀製の武器など、隠し持っ……」
頭の中が真っ白になった。銀製の武器?……純銀!?
「あ……あぁ、貴方たちが、悪いんだっ!この僕にっ、こんな屈辱……!」
床に膝をついてしまったカリファーを庇うように、背中側に回る。
白い服が、赤い血で真っ赤に染まっていた。その広い背中の真ん中より少し下、脇腹あたりに美しい装飾の短剣が突き刺さっていた。
震える手で、短剣を抜こうと触れる。カリファーの弱々しい声が掛かった。
「抜くな、ディア……」
「で、でもっ。手当てしないと!」
「……影、を伝って、セレー、ヌたちを……呼んだ。待って、ろ」
こんなに、途切れ途切れに話すカリファーを見たことがなくて、体が震えてくる。
しっかりしなくては。彼を今守れるのは、わたしだけなのに。
「それ、と……」
カリファーが、震えながらも血の気を失った指を立てて振った。
途端に、子爵令息が気絶したようにその場で倒れた。
「なに……?」
「さすが、に、人の子に……見せられん」
額に汗を浮かべる彼の体を、傷に障らないように必死に抱きしめる。
「ディ、ア……すまん、血を、くれるか……」
カリファーに求められ、首元を隠している服を引っ張り下ろした。
彼の前に回って、唇に首筋を差し出す。
「……すまん」
白い牙を立てられて、わたしの血を啜る姿に僅かに安心できた。
あぁ、セレーヌ、レスト。早く、早く来て――!




