62.純血
カリファーのお屋敷に帰ってきた。
いえ、まだ帰る場所というわけではないのに、何故かそう思った。
わたしが動く度に、耳元でシャランと音が鳴る。カリファーの髪のような漆黒の台座に嵌め込まれた月光の涙が輝き、ゆらゆらと揺れていた。
ただの耳飾りのはずなのに、身に着けた瞬間から彼の息遣いが聞こえてくるようで、胸がドキドキする。
セレーヌが湯殿に案内してくれる間も、何だか頭の中がぽわぽわとしていた。
わたしの耳元に目をやって、セレーヌが珍しく微笑みを浮かべていた。
「よくお似合いですわ」
褒められて、途端に顔に熱が集まる。
「執着とも言うべき主の愛を受け入れてくださって、心より感謝致しますわ」
どういう意味かしら。
そう言えば、裏路地の職人さんも意味ありげなことを言っていた。
『夜の王の伴侶に、兄ともども、これよりもお仕え致します』
あれは、つまり――。
「さあ、ナスティディア様。汗をお流ししますわ」
声を掛けられて我に返る。
甘い香りの湯気に包まれた湯殿にも、すっかり慣れてしまった。
全身を磨かれ、香油を塗られる。
「ねぇ、セレーヌ?わたしたちは明日も仕事だから、今夜は泊まるわけではないのよ?」
だから、そんなに念入りにお手入れしてくれなくてもいいと思うのだけど。
凄い勢いで首を振られてしまった。
「貴方様を磨き上げるのが、私の楽しみなのでございます。取り上げないでくださいませ」
「……」
何も言い返せなかった。
いつもと同じように晩餐を終え、談話室でカリファーと並んで腰を下ろす。
明日に差し障るからと、わたしはお酒を断った。ゆっくりと、セレーヌが淹れてくれたお茶を飲み干す。
隣で、カリファーが赤酒を飲んでいる。
「聞きたいことは?」
穏やかな声で尋ねられて、一瞬呼吸が止まる。
聞きたいことはたくさんあった。
サラジ先生の除籍のこと。
デュロー伯爵令嬢の謹慎のこと。
そして、マドゥー学院長との関係。
茶器を置いて、じっとカリファーを見つめる。
「話してくれるの?」
「お前が、聞きたいなら」
きゅっと唇を噛む。何から、どうやって聞けばいいのかしら。
ふっ、とカリファーが笑いを漏らした。
「カリファー?」
「エレス=マドゥーは、遥か昔に俺が血を与えた眷属の末裔だ」
「っ!」
何を言っていいのかわからず、じっと続きを待つ。
「すでに只人と大差ない。他よりほんの僅か、寿命が長いくらいだな」
「寿命……」
「弟の方は、また少し違う」
そっと、耳飾りに触れた。
「これを作ってくれた人?」
「そうだ」
レストが静かに注いだ赤酒を、カリファーが一口飲んで言葉を続けた。
「あれには、伴侶がいる。俺たちと同じ、夜に生きる者だ」
思わず、口を両手で押さえた。わたしとカリファーのように、生きる時間の違う相手と伴侶に?
「その伴侶に血を与えられ、あの職人は俺たちと同じでもなく、兄と同じものでもない存在になった」
「そんな、こと……」
「不完全な血が入ったからな」
どういう意味かしら。
「この世に残る、最後の純血が俺だ。俺の血を分け与えなければ、純粋な眷属にはならない」
杯を置いたカリファーが、わたしの手にそっと手を重ねた。気づかない内に、体が震えていた。
「怖いか?」
「……怖い」
「そうか」
カリファーの手を、強く握り返す。
「貴方と、このままずっと一緒にいられなくなるのが、怖い」
「!!」
彼の手を引っ張り、自分の頬に当てる。ここに、確かに貴方はいるのに。
「ディア?」
「わたしを、貴方の妻にしてくれるんでしょう?それなのに、その眷属という存在には、してくれないの?」
驚いたように見開かれた黄金色を、何も言わずに見つめた。
「……ディア」
優しく、ゆっくりと頬を撫でられる。わたしを安心させる、いつも包み込んでくれるカリファー。
こんなに愛しているのに、同じ世界で生きられないの?
「わたしは、貴方とは、住む世界が違うの……?」
「お前を、人のままでいさせてやりたい」
「どうして?」
わたしの望みは叶えると、言ったじゃない。
「これまで、必死に努力して。母を亡くした孤独にも耐えて。やっと掴んだ未来だろう?俺の為に捨てるのか?」
意地悪な聞き方ね。
「捨てたくないわ」
「そうだろう?」
「だけど……貴方とずっと生きていきたい気持ちも、本当なのよ。どうすればいいの」
何も答えてくれないカリファーに、不安だけが募っていく。
静かに扉横に控えていたセレーヌが、足音もなく近寄ってきた。
「恐れながら、ナスティディア様」
「……セレーヌ?」
声を掛けられた瞬間、カリファーが鋭い視線で彼女を睨んだ。
けれど、意に介した様子もなくセレーヌが言葉を続ける。
「貴方様にならば、主の長い長い旅を終わらせることが、できるのではないかと思います」
「えっ?」
「セレーヌ!」
叫び声と同時に、セレーヌの体が扉まで吹き飛ばされた。
世界が闇に覆われたような感覚に、肌が粟立つ。
ハッとして、セレーヌに駆け寄ろうとしたわたしは、次の瞬間にはカリファーの腕の中にいた。




