60.不穏な言葉
結局、その日はカリファーとゆっくりと話をすることができなかった。
来月開催される武術大会の準備に、それぞれ駆り出されてしまったから。
と言っても、教師が管轄している学力試験とは違い、武術大会は生徒たちが主体になって行われる。
剣術、槍術、弓術の三部門に分かれての勝ち上がり戦だ。
腕に覚えのある男子生徒だけでなく、騎士を目指す女子生徒も少ないけれど参加する。
そして、貴族も平民も区別なく、純粋な力で試合を行うこの大会を楽しみにしている生徒は多かった。
保健室でアスナ先生の書類整理を手伝う。
「もぉ〜、毎年のことですけどぉ、憂鬱ですぅ」
文句を言いながらも書類を捌く手を止めないアスナ先生はさすがだった。
「武術大会は、保健医であるアスナ先生が大忙しですものね」
「本っ当ぉ、張り切り過ぎた男子ってぇ、空回って怪我をするんですよぉ」
頬を膨らませながら、アスナ先生が発注書に何か書き込んでいる。
怪我人が多数出ることが予想される武術大会では、常よりも消毒液や傷薬、包帯などを多く用意しておかなければならなかった。この時期、保健医は多忙を極める。
アスナ先生が書き終えた発注書を、隣の机で纏め端を留める。
「武術教師のホジャ先生も、張り切ってらっしゃいましたね」
熊のような大きな体の男性教師を思い浮かべて、くすっと笑いが漏れた。
「あの先生はぁ、告白してくれた女子にぃ、格好いいところを見せたいだけですよぉ」
春の終わりに、平民の女子生徒から思いを告げられて舞い上がったホジャ先生。
学院中に響くのではないかという大声で、「卒業してから!」と真っ赤な顔で答えた話は瞬く間に広まった。
「卒業を待たなくたってぇ、もう学院中が知ってるのにぃ。意味あるんですかねぇ?」
書類の確認をすべて終えたアスナ先生が、ふうっと息を吐き出した。
「秩序を守って、素晴らしいことじゃないですか」
高等学院では、異性との交際を特に禁止してはいない。
貴族の子女には婚約者がいる場合が多いし、学院で想い合える相手を探す生徒も珍しくない。
平民の子どもたちはもっと積極的だ。
年齢差があっても悪く言われることもないこの国では、教師と生徒が交際しようと眉を顰められることはなかった。
「それなのに、きちんと彼女が卒業して、大人になるのを待つだなんて素敵だと思いますわ」
「えぇ〜、でもぉ」
「何ですか?」
「リリンカ先生だったらぁ、我慢できるんですかぁ?」
「えっ?」
提出する書類と保管しておく書類を仕分けていたわたしは、手を止めて顔を上げた。
「例えばぁ、ダレストン先生が学院の先生でぇ。リリンカ先生が生徒だったとしてぇ。告白したのにぃ、卒業してからって言われてぇ、待てますぅ?」
そう聞かれて固まってしまった。それは、まるであの頃のサラジ先生とわたしの話のようで、背筋が寒くなる。告白してきたのは向こうだったけれど。
「リリンカ先生ぇ?」
「……あ、いえ」
机の上でとんとんと書類を揃えて、立ち上がった。
「整理、終わりましたよ。こちらは、庶務室に提出しておきますね」
「あっ、助かりますぅ。……あのぉ、リリンカ先生ぇ?」
「はい?」
「あたしぃ、何か余計なことぉ、言いましたかぁ」
しょんぼりしてしまったように見えるアスナ先生に吹き出して、首を横に振った。
「いいえ。ただまぁ、お付き合いの進め方は人それぞれでしょうから、噂もほどほどになさって」
「はぁい」
くすっと一つ笑って、保健室の扉を開いた。
カリファーが佇んでいて心臓が止まるかと思った。
「っ!」
「アスナ先生の手伝いは終わりましたか?」
学院でのカリファーは、丁寧な言葉遣いでいつもよりも紳士に感じる。
「あ、ええ……」
チラリと振り返ると、アスナ先生が目を丸くした後で、それはそれはいい笑顔で手を振ってくれた。
これは、明日またからかわれるわね。
「この後は?」
「あ、えっと……庶務室にこの書類を提出して、教員室に寄って帰りますわ」
「では、ご一緒しましょう」
「ダレストン先生は、お時間よろしいの?」
並んで歩きながら、高いところにある彼の顔を盗み見た。
いつもと変わらない、穏やかな横顔。
「私は、今日の仕事は終わりましたから」
「ホジャ先生の、補佐でしたよね」
「……まったく、筋肉馬鹿でした」
「えっ?」
思いがけない呟きに、足が止まりそうになった。
「ダレストン先生?」
「おっと、これは失礼。今のはどうか内緒に」
人差し指を唇に当てて、こちらに片目を瞑る彼に吹き出した。
「はい、言いません」
「今夜の予定は?」
「特に決まっていません」
「では、婚約の記念を買いに行こう」
その言葉に首を傾げる。
「婚約の記念?」
「邪魔者をようやく排除できたから」
「え……」
どういう意味か聞こうとした時、カリファーが前方を示した。
「あぁ、ほら。庶務室ですよ」
「あ……」
「ここで待っていますから」
扉を開いて室内に入ろうとしたわたしは、不安になってカリファーを振り返った。
普段と何も変わらない、黄金色を細めてわたしを見つめる彼の姿がそこにはあった。




