48.宣言
床に転がったデュロー伯爵令嬢が、角を曲がってきたカリファーに手を伸ばした。
「あぁ、ダレストン先生。助けに来てくださったのですね!」
取り巻き令嬢たちも、頬を染めてその様子を見つめている。
「先生、聞いてくださいませっ。そこのリリンカ先生が、わたくしを引っ張って床に倒れさせたのですわっ!わたくし、怖くって……」
片手で目元を押さえて泣き真似まで始めた。
凄いわ。あんなにわかりやすい嘘泣きってあるのね。
驚いて目を丸くしているわたしに、何を勘違いしたのか伯爵令嬢が勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「ダレストン先生、さぁ。いたいけなわたくしを助け起こしてくださいませ」
茶色の瞳をきらきらさせている彼女の横を通り抜け、カリファーがわたしに手を差し出した。
「……えっ?」
何の言葉もなく側を通り過ぎたカリファーに、驚愕の目を向けている伯爵令嬢の思考がさっぱりわからないわ。
「ダ、ダレストン先生……?」
「怪我をしたのか。保健室に行くか?」
「ええ。アスナ先生にお薬を出してもらうわ」
彼の大きな手の上に乗せたわたしの手の甲を見て、カリファーの眉間に深く皺が寄った。
「これは?」
伯爵令嬢の踵の跡が、くっきりと残っていた。血も滲んでいる。
空気が、一気に冷たくなった。
宥めるように、カリファーの手をそっと握る。
「こんなところに、夜を連れて来てはダメよ。見た目ほど、酷い傷じゃないわ」
感情が昂った時、特に怒りで心が支配されそうな時、カリファーは世界を暗闇にしてしまう。
以前、図書室でサラジ先生に押さえつけられた時のように。
だけど、こんなことでその力を使わせたくはなかった。
「ね、すぐに治るわ。だから、怒りを静めて」
わたしの体を引っ張り起こして、服の汚れを手で払ってくれた。
床に散らばる書類を拾い始めたカリファーに、懲りない令嬢が声を掛けてきた。
「ダレストン先生っ!何故、わたくしを無視なさいますのっ?」
そんな彼女に力づけられたのかどうか。
取り巻きの二人も口々に言い募り始めた。
「そっ、そうですわっ!メルリー様が倒れていらっしゃるのに、どうしてお助けにならないのっ」
「ダレストン先生のような紳士が、何故そんな平民など……!」
あぁ、わたしでは彼の怒りを抑えきれないかもしれない。どうして、怒りを増長させるようなことを言うのかしら。
カリファーの唇が、わたしの耳元に寄せられる。
「少し、待てるか?すぐに終わらせる」
「いいえ、わたしが話すわ。彼女たちは、わたしに用があるのだもの」
「何をこそこそしていますのっ!」
わたしを庇うように立っていたカリファーの前に出る。
「メルリー=デュロー伯爵令嬢」
「なっ、何ですのっ」
取り巻きたちに起こしてもらって立ち上がった彼女は、わたしに敵意むき出しの目を向けた。
「貴方は、彼に拒絶されたのでしょう?」
「な……っ」
「それをしつこく付き纏っているのなら、許すことはできません」
誰かを想うことは、自由だ。誰にも止められない。
「貴方が彼を好きだという気持ちは、貴方の自由。それなら、彼が誰を選ぼうと、それは彼の自由よ」
「何を……」
「そして、彼が選んだのは、貴方ではない」
背中に彼の気配を感じて、心が強くなる。
わたしと彼が想い合っているという事実を、誰にも否定なんてさせないわ。
「わたしたちは、正式にお付き合いしています」
「なん……」
「ですから、これ以上付き纏うのはやめていただきたいわ」
きっぱりと告げて、くるりと振り返る。
心配そうな黄金色が、こちらを見ていた。大丈夫と頷いて、彼の腕に触れた。
「行きましょう」
「ああ」
後ろは振り返らなかった。これ以上、あの金切り声を耳に入れたくない。
傷が痛みだしたわたしは、一刻も早くこの場を離れることしか考えていなかった。
だから、隣でカリファーがどんな顔をしていたか、わたしは気づかなかったのだ。
「あらぁ、リリンカ先生ぇ?どうされましたぁ?」
カリファーに付き添ってもらって、保健室に入るとアスナ先生が目を丸くした。
困ったように眉を下げて、手の甲を見せる。
「ちょっと、失敗しちゃって。傷薬ありますか?」
「まあまあぁ。ちょっ、ちょっと、こちらへ座ってくださいなぁ」
そっと手を取られ、診察の椅子に座らされる。
「あっ、ダレストン先生はぁ、入ってきちゃダメですよぉ」
そう言って、仕切りの布でカリファーの視線を遮られてしまった。
「ここで、待っている」
仕切り布越しの低い声に安心して、ようやく体から力を抜けた。
「これ……誰かにぃ、踏まれましたぁ?」
そうよね。わかるわよね。完全に踵の跡だもの。
「ちょっと。でも、ちゃんと反論しましたから、大丈夫ですわ」
「もぉ〜。ダレストン先生にぃ、ちゃんと守ってもらってくださいよぉ」
不満を言いながらも、アスナ先生が丁寧な手つきで傷薬を塗ってくれた。
「……滲みます」
「我慢ですぅ」
薬を塗り終え、清潔な布を当ててもらって息を吐く。
「はい。あとはぁ、この瓶が空になるまでぇ、朝晩塗り込んでくださいぃ。ダレストン先生にぃ、塗ってもらってもぉ、いいんですよぉ?」
「っ、ごほ……っ。あ、ありがとうございました。あの、アスナ先生?」
「はぁい?」
患者の記録用紙に書き込んでいるアスナ先生に、にっこりと微笑みかけた。
「ちゃんと、ダレストン先生に塗ってもらいますわ」
アスナ先生の手から、筆記具がぽろりと机に落ちた。




