46.微睡みの中で
濃厚な花の香りが、甘くわたしを包む。
やっと一つになれたような、ずっと探していた人に出会えたような、不思議な気持ち。
痛みはなかった。
ただ、わたしの首を伝う生温かいものを、彼が優しく啜る音だけが耳に響く。
どうして、怖くないのかしら。
夢の中にいるような気分。
起きているのか眠っているのか、はっきりしない。
でも、わたしを支える力強い腕の中は、何よりも安心できた。
そっと横抱きにされて、彼が立ち上がるのがわかった。
耳元に、唇が近づいてくる。
「今夜は、帰せない」
甘い熱に、酔ってしまう。
歩きだした彼の首に、ぎゅっと腕を回した。
「ディア、そんなに誘うな」
「さ……っ、誘ってなんて」
言われた言葉に耳まで真っ赤になったような気がする。
「ど、どこへ行くの?」
薄暗い廊下を大股に歩く彼の腕で、心地よい揺れに身を任せていると、カリファーはどんどんお屋敷の奥へと進んでいく。
急に不安になった。大胆なことばかり口走ってしまったような……。
「心配せずとも、これ以上何もしない」
「え……?」
「客室に連れて行く。今夜はそこで休め」
「……」
てっきり一緒に眠ってくれるものだと思っていた。
いやだ、はしたない。
彼の顔を見ていられなくて、目を逸らした。
「で、でも……帰せない、って」
「お前の血に酔った。この屋敷から今夜お前の気配が消えたら、俺は狂う自信がある」
たどり着いた屋敷奥の扉を、カリファーが足で開けた。
「く、狂うって」
「俺の愛を、軽く見るなよ」
客室に入って、置かれていた長椅子にそっと下ろされた。
わたしの目の前で、カリファーが床に膝をついた。
「飲み過ぎはしなかったと思うが。今夜は熱が出るかもしれない。早めに休め」
立ち上がったカリファーが、手の平から黒い蝶の影を出した。
飛んでいく蝶をぼんやりと眺めていると、膝の上の手にそっと触れられた。
「カリファー?」
「手当てする布を持って来させる」
そう言われて、ハッとして首筋に手を当てた。
もう血は止まっていると思うのだけど。
「そんなに心配することはないわ」
「人の体は脆弱だ。きちんと手当てして寝ろ」
「その、カリファー」
これを聞くべきか、さっきから悩んでいた。
「どうした?」
彼の優しい声に勇気をもらって、口を開く。
「わたしの血は、その……美味しかった?」
「っ!」
目を丸くしたカリファーを見て、恥ずかしくてたまらなくなった。何を聞いてしまったのかしら。
次の瞬間、満開の花が咲くように彼が笑った。
「甘美で、豊潤で、俺の渇きを癒す極上の血だった」
髪や瞳を褒められるより恥ずかしくて、思わず顔を両手で覆ってしまった。
セレーヌが持って来てくれた布を首筋に当てて、わたしを寝台に横たえた後で、カリファーは客室を出ていった。
何故か大きさがピッタリの寝間着をセレーヌに着せられて驚いたわ。
カリファーに噛まれた首がじんじんと熱い。
そっと、布越しに触ってみる。彼の牙と唇の感触が、まだ残っているようだった。
頭を振って目を閉じる。
カリファーの言葉を思い出す。
人として生きるか。彼の世界へ行くか。
彼の世界って、どういう意味かしら。カリファーに血を飲まれたわたしは、人ではなくなるということ?
これまで精一杯生きてきた。そのすべてを、彼の為に捨てるということ?
怖い。でも、彼の側にいたい。
どうして。いつからこんなに、カリファーのことを好きになっていたのかしら。
うとうとしながら、それでも彼のことを考える。
最初は尊敬するべき同僚だった。
いつでも優しかった。わたしの意思を尊重してくれる、素敵な人だった。
どこか怖い、でもいつも真っ直ぐに見つめてくれる、紳士的な人。
今夜の彼は少し強引だった。いえ、多分わたしのせいね。
待つと言ってくれたのに、その距離が寂しくてわたしが迫ったんだもの。
落ち着かなくて寝返りを打った。
お屋敷の静けさが、少しずつわたしを夢の世界へ連れて行く。
明日の朝、どんな顔をして彼に会えばいいのかしら。
ああ、でも――。
きっとまた、わたしは首筋を差し出してしまいそう。




