45.牙
時間が止まったような静けさに包まれる。
大きな腕の中、花のような甘い香りがわたしを酔わせている。
彼の息遣いだけが聞こえる。
ああ、何だかとても、安心するわ。
気づけば食器はすべて下げられ、使用人の姿も消えていた。いつの間に。
髪を撫でる優しい手つきに目を閉じた。
「……ディア」
零された声が甘い色を含んでいて、彼の胸に額を押しつけた。
「っぐ……ディア、待て」
体を引き剥がされそうな気配を感じて、彼の背中に両腕を回した。
「お前……」
「まだ、離れたくないわ」
ぐぅ、と呻いたような声が聞こえた後、つむじに優しい重さを感じた。
「カリファー?」
彼の顔を見たいのに、頭を動かせない。
カリファーの頬が、わたしの頭を押さえているみたいだった。
「意味がわかって、言っているのか?」
「意味?」
「無自覚か。先が思いやられるな」
頭の上から重さが離れていき、顎にそっと長い指がかけられた。
上を向かされる。黄金色がやっと見えた。
「忍耐力には自信があったんだが……」
「えっ?」
「お前の覚悟を待っていたんだ」
「覚悟?」
カリファーが、わたしの額に自分の額を押し当ててきた。
唇が触れそうな距離に心臓が早鐘を打つ。
「お前が、このまま人として生きていくのか。俺の世界へ来るのか」
苦しげな声に悲しくなった。わたしは、カリファーの気持ちを何もわかっていないのかしら。
「その覚悟を決めてくれるのを、待つつもりだった」
意味がわからず、言葉の続きをじっと待つ。
「俺のような化物になって、永遠に夜を生きる覚悟を、お前は決められるのか?」
「っ!」
驚愕に目を見開いたわたしから、彼の顔が離れていく。
「まだ、決められないだろう?だから、できるだけお前に触れないようにしていた」
「どうして……」
「離れられなくなる」
それは、わたしがその覚悟を決めないと、彼と触れ合うことができないということ?
「俺は、ずっとお前に触れたかった。今みたいにこの腕の中に閉じ込めて、俺だけを見ていてほしかった」
わたしを抱きしめる腕から、力が抜けていく。
「だが、それはお前を尊重しないということだ。そんな無様な男に成り下がることは、俺自身が許さない」
離れていく腕を、必死に掴んだ。
「っ、ディア。だから、触れるなと……」
「側にいたいわ」
「……っ」
ダメ。泣いてはダメよ。
どうすれば、わたしから離れずにいてくれるのかわからない。
「貴方に、触れたい……」
「ディア!」
「覚悟なんて、わからない。貴方の言う意味が、理解できないわたしでは、貴方に触れる資格はないのかしら」
声が震えて情けない。
彼を失うのかもしれないと思って、怖くなった。行かないでほしかった。
ずっと側にいると、言ったのに――。
「……っ」
何、今の気持ち。そんなこと、言われた?
自分の内側から漏れた想いに首を振った。
「ディア?」
「貴方に口づけたいと、触れ合いたいと思うわたしは、はしたない女?」
「くち……っ」
真っ赤なカリファーなんて初めて見たわ。ほんの少し冷静になった。
そっと、彼の胸に手を置く。
「ディア……」
「わたしを、貴方のものにしてほしい」
もう、気持ちを止められない。
人のまま生きるか、彼の世界へ行くか。そんなこと言われてもわからない。
ただ、今、目の前にいるカリファーに触れたくてたまらなかった。
力強く体を引かれて、彼の膝の上に乗せられていた。
「カ、カリファー?」
「まったく、敵わない……」
「えっ?」
いつもは見上げる黄金色を、いつの間にか見下ろしていた。
下から射抜かれて、身動きできない。全身を、縛りつけられたみたい。
すっ、と長い指がわたしの髪を後ろへ流した。肌を掠めた感覚にびくりと身を震わせる。
「もう、後戻りはできないぞ」
低い囁きが、熱を持ってわたしを包み込んだ。
「後戻りなんて、しないわ……」
言い終わる前に、カリファーがわたしの首筋に白い牙を立てた――。




