39.語られる
どうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。
いつの間にか、埃を取り払われた寝台に横たえられていた。
「……わたし」
「気がついたか」
低い声を掛けられて驚く。ゆっくりと、視線を動かした。
寝台の脇に、カリファーが座っていた。
「どうして……」
声が掠れた。上手く言葉が出てこない。
「セレーヌが蝶を飛ばしてきた」
「え……?」
「あれほど焦ったセレーヌは初めて見たぞ」
起き上がろうとすると、やんわりと手で押さえられた。
「まだ寝ていろ」
寝台脇に置かれた水差しから、カリファーが水を注いだ杯を差し出してくる。
「飲めそうか?」
水は欲しいけれど、起き上がるなと言ったじゃない。
恨めしそうな目になってしまっただろうわたしに、カリファーが目を丸くした。
「すまん。まずは唇を湿らせてやろう」
「え?」
「指で触れるが、いいか?」
意味がよくわからずに、ぼんやりと頷いた。
カリファーが、長い指を水に浸してわたしの口元に近づけてきた。
「……ぁ」
「ほら、口を開けろ」
優しく、親指の先で唇をなぞられてぞくぞくした。
じんわりと水分が染み込んできた。グラスを置いたカリファーが、わたしの背中に手を差し入れて体を起こしてくれる。
「辛くないか?」
「えぇ、ありがとう」
手渡された杯から、ゆっくりと水を飲む。少し頭がはっきりしてきた。
「蝶、って?」
セレーヌが蝶を飛ばしたと言っていた。どういう意味かしら。
わたしの疑問に、カリファーが肩を竦めて体の横で手の平を上にした。
ふわり。手の上に黒い靄が立ち上り、少しずつ形が変わっていく。
声も出せずに凝視しているわたしの前で、靄が黒い蝶の影になった。
「……っ」
「眷属たちは、これを使って連絡を取り合う」
眷属……?
「一体、貴方は……何者、なの?」
唇が震える。
カリファーが長い脚を組み替えた。
「……知りたいか?」
前にも聞かれた。彼のことを知るか、拒絶するか。
怖くてたまらないけど、きっとカリファーはわたしを傷つけない。知らないままでいることの方が、怖かった。
黄金色を真っ直ぐに見つめて頷いた。
「貴方のことを、知りたいわ」
「もう、戻れなくなっても?」
「それでも、何も知らないままでいたくないわ」
わたしの手から杯を受け取ったカリファーが、考え込むように一度目を伏せた。
「遥かな王国について、どのくらい知っている?」
紡がれたのはそんな問いかけの言葉だった。
「歴史学の資料に出てくる程度のことしか……」
「聞かせてくれ」
目を閉じて、歴史学の教本や参考書の文章を思い浮かべる。
「『今ではもう誰もいない。誰も名を知らない。古代に栄えた王国』そう、書かれているわね」
「そうだな」
「豊かに栄えた時代に、何者の侵略も許さなかった、強い王が治めたと言われている夜の王国。……夜の王国?」
目を開けてカリファーを見つめた。
何の感情も浮かんでいないような顔の中で、黄金色の瞳が夕闇に煌めいている。
「俺は……俺たちは、その王国からやって来た」
「俺たち?」
「俺の屋敷にいる者たちだ」
「それ、は……」
歴史の教本に載っているような王国から、カリファーたちは来た?
実は滅んでいなかったということかしら。今でも、どこかに存在しているの?
「一度、人の国同士の争いに巻き込まれたことがあってな。侵攻などさせなかったが、歴史の表に名を出すことをやめたんだ」
「……」
掛布の上で握りしめたわたしの手に、カリファーの手が重ねられた。
「っ!」
「怖いか?」
彼はわたしから目を逸らさない。嘘を吐こうと思えばきっとわたしを騙すことができるのに、そうしない。
とても恐ろしい存在かもしれないのに、彼の誠実さに安心できた。
「怖いけど、それでも聞きたいわ」
わたしの答えに頷いて、カリファーが続ける。
「長い長い年月の間に、仲間は少しずつ、滅えていった。今では、俺の側近くに仕える数人と、ほとんど人と変わらない弱い配下しか残っていない」
「長い、年月って……?」
「……一万年」
「!?」
彼の手を重ねられた手が、知らず震えた。




