3.波乱なんて望んでない
初めての授業は、フェンヤ先生の補佐という形でついて行くことになった。
教員室での新学期に向けた朝礼を終えると、席を立つ。
学院長先生は挨拶をされたけど、ダレストン先生の姿はなかった。
新任の講師の紹介はわたしだけだった。どうしてかしら。
昨晩遅くまでかかって纏めた資料を抱え、フェンヤ先生の後を追う。
廊下を二人並んで歩いていると、もう生徒ではないのだと新鮮な気持ちになる。
「サラジ先生は、相変わらずねぇ」
「えっ?」
生徒たちにどんな挨拶をしようかと考えていたわたしは、フェンヤ先生の声に我に返った。
「在学中から貴方を狙っていたのは、みんな知っていたのよ」
「え、どういう……」
「貴方の評判に傷がつくから、卒業するまで我慢するように、学院長が説得なさったのよ」
知らなかった事実に驚いた。
確かに在学中も、絡みつくような視線を向けてきていた。
それだけわたしを想ってくれているのだと、単純に喜んでいたわ。
「そうだったんですか。フェンヤ先生にも、ご迷惑をおかけしました?」
心配になって聞いてみると、フェンヤ先生は楽しそうに肩を竦めてみせた。
「あたくしは別に?学院長と同じように、優秀な貴方に悪評が立たなければそれでいいと思っていたわ」
理知的な新緑の瞳が、銀縁眼鏡の向こうで細められた。
「自慢の生徒でしたもの。進路にこの学院の歴史学を希望してくれていたのも、嬉しかったわ」
「フェンヤ先生と一緒に働きたいと思ったんです」
せっかくの機会だわ。これまで伝えられなかったことを、伝えておこう。
「正式な教師になれなかったのは残念でしたけど。でも、フェンヤ先生にはまだまだ、教えていただきたいことがたくさんあったんです。ですから、こうして一緒に働けて幸せです」
最初の授業を行う二年生の教室が見えてきた。
「あらあら。嬉しいことを言ってくれるわね?」
「本心ですよ」
「貴方にそう言ってもらえて、あたくしこそ幸せだわ。
さて、初めての授業ね。心の準備はよくて?」
そう問われて、背筋を伸ばす。
ここから、わたしの新たな人生の一歩が始まる。
深呼吸を一つして、教室の扉に手を掛けた。
入学式と言っても、授業が免除になるのは新入生だけだ。
二年生以上は、通常通りの生活を送ることになる。
貴族の令息令嬢も、平民の子どもたちも、十五歳でこの王立高等学院に入学する。
そして、十八歳で卒業するのだ。三年間、様々なことを学んで未来へ進んでいく。
そのお手伝いをできるのが、嬉しかった。
この国では、貴族も平民も家名を持っている。
かつて奴隷制度が撤廃された時に、当時の国王陛下が定めたと記録に残っていた。
最初の授業を終えて教員室に戻ると、待ち構えていたようにハスアンが近づいてきた。
「お疲れ様、ナスティディア」
「……リリンカと呼んでくださいね」
「生徒の前ではそう呼ぶさ」
流れるような所作でわたしの手を取り、席まで連れて行こうとする。
「サラジ先生、手を離してください」
このやり取り、今日だけで何回したかしら。
「君の席まで一緒に行くだけさ」
「サラジ先生、リリンカ先生が困ってますわ」
後ろから助け舟を出してくれたフェンヤ先生に、感謝の目線を送る。
緩んだハスアンの手からそっと自分の手を取り返し、両腕で資料を抱え直した。
「フェンヤ先生。僕と彼女のことに、口を挟まないでいただけますか」
刺々しい声に目を見開く。
少し強引なところはあるけど、攻撃的な人ではなかったのに。
フェンヤ先生も驚いたらしく、目を丸くしている。
「……ククッ」
低い声が耳朶を打つ。
慌てて視線を動かすと、窓際の席にダレストン先生がゆったりと座っていた。
「何がおかしいんです?」
フェンヤ先生からダレストン先生へと目線を動かしたハスアンは、さっきよりも深く眉間に皺を刻んでいた。
胸の奥底から、言い知れない不安が湧き上がってくる。
ハスアンの袖をそっと引く。
けれど気づいていないのか、ハスアンが大股にダレストン先生に近づいていった。
フェンヤ先生と目を合わせた後、慌てて追いかける。
「何、を、笑ったん、ですか」
一言ずつ区切るように、ダレストン先生に詰め寄っている。
「ちょ、ちょっと、ハスアン……」
つい名前を呼んでしまうと、動きを止めたハスアンがぐるりと振り返った。
「っ!」
「あぁ、やっと名前を呼んでくれたね」
さっきまでの不機嫌さなどなかったように、蕩けるような微笑みを浮かべているハスアンが不気味だった。
一体、どうしてしまったのかしら。
「必死だな。実に滑稽だ」
誰にも聞こえないような密やかな声だったのに、どうしてこんなにハッキリと聞こえるの?
恐る恐る、ダレストン先生に目を向けると、黄金色を細めて微笑んでいた。
ハスアンには、聞こえなかったのかしら。
つい見つめていると、ダレストン先生の唇が動いた。
『また、後で』
「っ?」
どうして、こんなに胸が苦しくなるの――?




