37.久しぶりの実家
海沿いの小さな町、コターニャ。
潮風で傷むから、農作物はあまり作っていない。
代わりに海で穫れた魚を使った料理が好まれている。
馬車を降りて、懐かしい風に吹かれながら息を吐き出した。
荷馬車から荷物を受け取ってきたセレーヌが、感嘆の声を上げた。
「素晴らしい空気ですわね」
「そう?」
「ええ。人も町も、他者を疑うことを知らない、無垢な気配が濃厚ですわ」
恍惚と告げられた言葉の意味を掴みかねた。
「よくわからないけれど。故郷を褒めてくれてありがとう」
「まずはご実家へ向かわれますか?」
「そうね。家に荷物を置いて、管理してくれている遠縁の方を訪ねるわ」
荷物を両手に持ったセレーヌに、声を掛ける。
「やっぱり、自分の荷物は自分で持つわ。それでは、手が塞がってしまうでしょう?」
「お気遣いなく。悪漢が現れたなら、私の荷物を投げ捨てて撃退してみせますわ」
「頼もしい言葉だけど、そう警戒するような町ではないわよ」
ついさっき、無垢だとか言っていなかったかしら。悪漢なんて、どこから現れるというのよ。
ダメだわ。だんだんと、セレーヌへの心の声が抑えられそうにない。
せっかく好意で付き添ってくれているのに、こんなことを考えてはいけない。
「まあ、とにかく。この町出身の平民のわたしが、見るからに貴族の使用人である貴方に荷物を持たせているなんて、ちょっと決まり悪いのよ」
そう告げると、ようやく渋々といった感じで、セレーヌがわたしの旅行鞄を渡してくれた。
「ですが、この町にいる間だけですわよ。それと、お家に着きましたらきちんとお世話させていただきますから」
わたしの意思を尊重してくれながら、自分の気持ちも曲げないセレーヌに微笑む。
「ええ。貴方が自分の仕事に誇りを持っているのはわかっているわ。だから、人目のないところでは、好きに振る舞って」
そして、町の入口から実家へ向かって歩き始めた。
町の裏に広がる小さな山の麓あたりに、懐かしい我が家が建っていた。
一階建ての、小さな木造屋。木戸はぴったりと閉じられているけれど、潮風で随分傷んでいるように見える。
誰も住んでいないし、管理してくれる人がいると言ってもそれほど頻繁に来てくれてもいないだろう。
そっと鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
扉を開けると、埃っぽい空気が漂ってきた。
「まずは、窓を開けないと」
「私がやりますわ。お嬢様は、寛いでいてくださいませ」
早速仕事に取り掛かろうとするセレーヌを、慌てて止めた。
「待って。久しぶりの家の空気を感じたいから、窓はわたしに開けさせて。その間、荷解きをお願いできないかしら」
あちこち、建てつけの悪いところがあるのよ。窓を開けるのに、ちょっとしたコツがいるの。
「仰せのままに」
「居間はその扉を入ったところよ。荷物を解いたら、少し休憩してから親戚の家に行きましょうか」
「かしこまりました。厨房をお借りしても?」
歩きかけていたわたしは、その言葉に振り返った。
「厨房?」
そんな立派なものは、この家にはないのだけど。
「使える物は、残っていないんじゃないかしら」
「お湯を沸かして、お茶を淹れようかと思ったのですが」
「鍋くらいはあるでしょうけど。茶葉などないと思うわよ?」
二年前も、食事は町のお店で食べたし、一晩寝ただけで王都に戻った。
「茶葉は持参しておりますわ。薪が残っていれば火も熾せます」
「薪、はどうかしら。もしかしたら、残っているかもしれないけど」
「なければ、ご近所の方に少し分けていただいてきますわ」
そこまでして、お茶を淹れたいのかしら。
好きに振る舞っていいと言ったのはわたしだもの。
セレーヌに向かって頷いた。
「任せるわ。わたしは窓を開けてくるから」
「かしこまりました」
そして、わたしはゆっくりと、家の中を歩いて回った。
ガタガタと音を立てる窓を、一箇所に力を入れて少し斜めに傾けながら一気に開ける。
潮風が気持ちいい。こうして、いつも窓から母が帰ってくるのを見ていたわ。
わたしが物心つく前に父が亡くなってしまって、母は町長の家で使用人として働いていた。
幼い頃は、朝早くから夜遅くまで家を出ている母に寂しさをぶつけたこともあった。
でも、たまのお休みにはいつだって、わたしの側にいてくれた。
わたしと同じ、紅茶色の髪を一つに纏め上げて、黒い瞳をくるくると動かしていた。
「ふふっ。ただいま、お母さん」
一言呟いて、居間へと足を向けた。




