32.長期休暇
高等学院が夏の長期休暇に入った。
生徒たちが一斉に駆け出していく。
その姿を見送って、院内の見回りを始めた。教職員たちも、休暇の間は自由に過ごすことができる。
当番制で、学院の留守を預かる教師はいるけれど、新任のわたしやカリファーは今期その役割は回ってこない。
明日には、故郷の街へと出発する予定だった。
帰るのは二年振りだった。わたしが母と暮らしていた家は、遠縁の家族が管理してくれている。
母との思い出が残るあの家に、わたしが帰ることはきっともうない。そろそろ、手放す覚悟を決めるべきなのかしら。
穏やかな、海の近くの田舎町。
少女時代を過ごしたあの町には、母との思い出以外に思い出せることがあまりなかった。
幼い頃の記憶が、だんだんと朧気になっている。その代わりのように、繰り返し見る夢が、最近の悩み事だった。
いつも違う場面で、違う姿で彼女が彼と過ごす夢。
漆黒の髪を垂らし、黄金色の瞳を細めて彼女を見つめる彼。
穏やかな時も、騒乱の日々もあった。でも、起きた時にはあまり覚えていられない。
ただ、目を覚ます度に涙で頬が濡れていた。一体、わたしはどうしてしまったのかしら。
頭を振って、顔を上げた。
故郷に帰った時に、ご近所の方に配るお土産は買ってある。王都から馬車で三日はかかる距離だから、向こうでゆっくりするつもりはなかった。
お墓参りをして、知り合いに挨拶をして、家の管理について話し合う。
二泊して戻る予定だった。
アスナ先生と出かけたあの日、わたしの個室に増えた黒兎を思い浮かべる。
寝台に横になっても見えるように、机の位置を動かした。
ただの陶器の人形なのに、見守られているような安心感があった。
あれからカリファーに会えていない。
学院長先生のお供で、王城の学術会議に出席しているそうだ。
故郷への旅には、あの人形を持って行こうかしら。
彼を思わせるあの黒兎が一緒なら、楽しい旅になるかもしれない。
そんなことを考えながら見回りを終え、教員室へ戻ろうと踵を返したわたしの耳に、言い争うような声が聞こえてきた。
振り返っても誰もいない。どこから聞こえたのかしら。
廊下の奥は音楽室だった。扉はぴったりと閉じられている。
「……?」
首を傾げながら、足を踏み出す。
もう少しで扉に手が掛かるというところまで近づいた時、後ろから声を掛けられた。
「リリンカ先生ですか?」
驚いて振り向くと、高等学院の正門に詰めているはずの守衛の男性が立っていた。
「はい?」
「あぁ、よかった。まだ残っておられたんですね。正門に、お客様がいらしてるんですが」
「わたしに、ですか?」
学院に訪ねてくるような知り合いに、心当たりはなかった。
不思議に思っていると、守衛さんが「ええっと」と言いながら懐から何か書きつけを取り出した。
「セレーヌさんという、若い女性が見えてます」
「セレーヌ……えっ、セレーヌさん!?」
カリファーのお屋敷の侍女の名前だった。
わたしを、学院まで訪ねて来たの?カリファーではなく?
「それと、レストと名乗る男性が一緒に来られてるんですが。確かにお知り合いですか?」
「あ……ええ、はい」
カリファーのお屋敷の執事さんね。
「よかった。言伝を預かってます。『ご都合がよろしければ、旅の前に主をお訪ねになりませんか』だそうです」
どうしてわたしが旅に出ることを知っているのかしら。カリファーから聞いたの?
「まだ、正門にいらっしゃいますか?」
「ええ。リリンカ先生に確認してくるのを、待ってもらっています」
「わかりました。ありがとうございます」
一度だけ音楽室の扉を振り返って、わたしは正門に向かう為に歩きだした。
その音楽室で、フランソワーズ=ボンヌ子爵令嬢が、ハスアン=サラジ伯爵令息を拘束しているとは思いもせずに。
「……貴方が彼女の前に姿を見せることは、二度とできなくてよ。これ以上の失態は、あの方がお許しにならないわ」
口に布を噛まされて涎を垂らす伯爵令息の、濁った瞳をわたしが見ることはもうない。
わたしの知らないところで、世界は動いていた。




