31.黒兎
その後の食事は、まったく味がしなかった。
何かとてつもなく恐ろしいことが起こっているようで、背筋が寒くなる。
「リリンカ先生ぇ?」
声を掛けられてハッとする。冷や汗が止まらない。
「どうかされましたぁ?酷い顔色ぉ」
「あ……い、いいえ」
勢いよく水を飲み干した。飲んでも飲んでも、喉が渇くような気がする。
「そのぉ、あたしぃ、何か変なこと言いましたぁ?」
「えっ?」
「何かぁ、サラジ先生のこと言ってからぁ、リリンカ先生おかしいって言うかぁ」
彼と恋人だった時間が、アスナ先生の中でなかったことになっているの?
そんなこと。どうして、どうやって。
頭の中がぐるぐるして、眩暈を起こしそうになった。
座っていてよかったわ。歩いている時だったら、きっと立っていられなかった。
ふう、と息を吐いて、アスナ先生を見やる。
「わたしが、サラジ先生とお付き合いしていたこと、覚えています?」
周囲の喧騒も耳に入らなかった。ただ、アスナ先生の声だけに集中する。
びっくりしたように目を丸くして、アスナ先生が首を傾げた。
「リリンカ先生とぉ、サラジ先生がぁ?何の冗談ですぅ?」
「冗談……」
「あ、からかってますぅ?あたしがぁ、ダレストン先生とのこと聞いたりしたからぁ?」
アスナ先生は本気で言っているようだった。だから、怖い。
カリファー、貴方が何かをしたの?
でも、人の記憶を操作するなんて、そんなことできるものなの?
頭を振って、震える唇を動かす。
「ごめんなさい。わたし、何か勘違いしたみたい」
これ以上聞いても、きっとアスナ先生から答えは得られない。
胸がドキドキと騒いで仕方ない。
「んー。勘違いですかぁ。もお、びっくりさせないでくださいよぉ」
ふふっと笑って、アスナ先生がグラスに残った果実酒を飲み干した。
料理店を出て買い物の続きに歩き出す。
頭の中はカリファーのことでいっぱいだった。雲の上を踏んでいるように、足元がおぼつかない。
「前からぁ、あのお店気になっててぇ。見に行ってもいいですかぁ?」
アスナ先生が指したのは、最近女子生徒たちに人気だという雑貨店だった。
可愛らしい文具や机に置ける小さな人形などを売っているらしい。
勉強のお供に、文具を飾って気分を高めるのが、最近の流行りということだった。
「保健室ってぇ、殺風景じゃないですかぁ。せめて机の上にぃ、可愛いもの飾りたくてぇ」
浮き浮きとした足取りで、アスナ先生が店内に入るのを追いかけた。
「それにぃ」
声を潜めたアスナ先生に近づく。
「何ですか?」
「恋が叶うおまじないがぁ、売ってるんですってぇ」
悪戯っぽく細められた桃色を、まじまじと見つめた。
「叶えたい恋があるんですか?」
アスナ先生は、可愛らしい顔立ちに豊かな胸が色っぽいと、男性から人気がある。
けれど、特定の恋人はいないと聞いたことがあった。誰かに恋をしているのかしら。
重たくなっていた胸の中が、少しだけ浮上する。
「あたしじゃなくてぇ。いい物だったらぁ、リリンカ先生にどうかと思ってぇ」
「えっ?」
「うふふぅ。隠したってぇ、誤魔化したってぇ。あたしにはお見通しですよぉ」
歌うようにそう言って、アスナ先生が店内を進んでいく。
溜息を吐いて、店に置いてある物を眺める。可愛らしい雑貨は、見ているだけで気分が高揚する。
頭の中から、アスナ先生との会話が離れてくれない。
恋を叶えるおまじないって、どんなものなのかしら。
「あ、これ……」
棚の端に隠れるように置いてある人形が目に入った。
兎を形取った陶器の人形で、机の上に飾るのにちょうどいい大きさだった。
普通、兎なら白い物で作るはずなのに、この人形は漆黒だった。そして、兎の目には黄金色の石が嵌め込まれている。
陽の光を受けてきらきらしている黒い兎から、目を離せなかった。
どうしてこんな色彩で作ったのかしら。製作者の好み?
震える指を兎に伸ばす。冷たいはずの置き人形が、あの人の体温を伝えてくるようで泣きそうになった。
「リリンカ先生ぇ?」
後ろから声を掛けられてハッとする。いつの間にか、兎の人形を握りしめていた。
「あ……」
「あらぁ、不思議な色の兎さんですねぇ。買われるんですぅ?」
覗き込んできたアスナ先生は、籠いっぱいに雑貨を詰め込んでいた。
「アスナ先生こそ、そんなに買われるの?」
「職場用とぉ、寮のお部屋用とぉ。あとは友人に配りますぅ」
「おまじないの方は、よろしいの?」
そう聞くと、照れたようにアスナ先生が笑った。
「恥ずかしかったけどぉ、お店の人に聞いてみたんですぅ。そしたらねぇ、おまじないを売ってるのはぁ、このお店じゃないんですってぇ」
「まあ、残念でしたね」
「次のお休みにでもぉ、また探しますぅ」
会計の為に歩きだしたアスナ先生の後を追う。
胸に、小さな黒兎を抱きしめたまま。




