22.噛み合わない
強い拘束から抜け出せない。
生温かい息が首筋にかかって寒気がする。
耳元で、吐息のように言葉が紡がれた。
「……会いたかった、ナスティー」
拒絶した呼び名で呼ばれてカッとなった。
腕の中で力を振り絞って暴れる。
「離してっ!」
ここが学院内の図書室だということも、忘れていた。
「酷いな、僕はこんなに、君に会いたかったのに」
「わたしは会いたくなかったわ!手を離して!」
ますます、わたしを抱きとめる腕に力が入って息が苦しい。
「迎えに来るのが遅くなって悪かった。もう安心していいよ。今すぐ、僕の屋敷に連れて帰ってあげるから」
誰が来るかわからない。早く逃げ出さなくては。
以前よりやつれて細くなったように感じる腕が、わたしの動きを封じている。何とかしようともがくほど、拘束の力が強まっていく。
どうしようと焦っていると、彼がわたしの首筋を舐め上げてきた。
「〜〜〜っ!」
「あぁ、汗をかいているね。香ばしい香りがする」
あまりの気持ち悪さに意識を飛ばしてしまいそうだった。
いいえ、気絶なんてしては相手の好き勝手にされてしまう。絶対にダメよ。
「離してください!」
渾身の力を足に込めて、相手の爪先を踵で踏みつけた。
「っ!!」
以前のような踵の低い靴でなくてよかったわ。少しは痛手を与えられたかしら。
相手が怯んだ隙に、思い切り身を捩った。
「ナスティーッ!」
「そう呼ばないでと言ったはずよっ!」
もう一度足を踏みつけようかと思っていると、ぐるりと体の向きを変えられた。
本棚に強く背中を押しつけられる。
ギラギラと濁った焦げ茶色が、品定めするみたいにわたしを見ていた。
「……サラジ、せんせい」
げっそりと頬がこけ、赤茶の短髪はボサボサだった。
目の下には濃い隈ができていて、以前と随分印象が違う。それなのに、瞳だけがギラギラと光っているのが恐ろしかった。
両手首を彼の片手が拘束して頭の上で押さえつけられた。もう片方の手が、わたしの顎を掴む。
「触らないでっ」
「いい加減、機嫌を直してくれないか。些細なすれ違いだろう?」
もう、彼と会話をする気になれない。
何を言っても、きっと自分に都合よくしか解釈できないのね。
手の拘束を解こうと、力を入れてみる。びくともしなかった。この細い体のどこから、そんな力が出ているのかしら。
もがくわたしをニタリと見つめて、彼の顔が近づいてくる。
「やめて」
「照れなくていい。これから、たっぷり可愛がってあげるから」
「手を離して。わたしに近づかないで」
動揺すれば彼を喜ばせるだけのような気がしてきた。感情を乗せないように、冷たい声を出す。
一瞬動きを止めた彼が、そのままわたしの口元に唇を寄せてきた。
たとえ、唇を奪われたって、わたしの心はわたしのものよ。
「貴方になんて、二度と心を寄せたりしないわ」
「っ!」
唇が触れる寸前に、低い声で告げてやった。
「何度伝えても、わたしの気持ちを尊重してくれない。貴方になんて触れられたくないと前にも言ったのに、覚えていられないのね。可哀想な人」
「っ、黙れ!」
バシン、と頬を叩かれた。
じんじんと痛んだけれど、彼から目を逸らさない。
「言葉で敵わないなら、暴力?卑劣な人ね」
「黙れと言っているっ!」
もう一度、反対側を叩かれた。口の中に、血の味が広がる。
体がどれだけ痛んでも構わないわ。こんな人の思い通りになんて、絶対になってやらないんだから。
「貴方を、軽蔑するわ」
焦げ茶色を真っ直ぐに見据えて、そう言った。
そうよ。嫌がる女性を力づくで好きにしようなんて、恥ずべきことだわ。教師が聞いて呆れる。
「……っ、もういい!さっさと歩くんだ。屋敷に帰ったら躾け直してやるっ!」
吐き捨てるように言われた瞬間、辺りが暗闇に包まれた――。
動揺が手首を掴む手から伝わってくる。
自分の指先さえ見えないほどの暗さに、胸がドキドキしてきた。
一体、何が起こったの?
「……その薄汚い手を離せ」
低く、怒りを抑えた声が暗闇に響いた。
わたしを掴んでいる相手が、びくんと跳ねたのが見えなくてもわかる。
恐怖に震えているのか、サラジ先生の手が汗ばんできている。気持ち悪い。
「聞こえなかったか?手を離せ、と言っているんだ」
あぁ、もの凄く怒っているのがわかる。それなのに、この声を聞いているだけで、安心して力が抜けてくるわ。
「ぅ、わ……ひっ」
小さな悲鳴が聞こえて、わたしの手首にかかっていた力が抜けた。
ぬるり、と汗で滑りながら、わたしを押さえつけるだけの手が離れていった。
ようやく手を取り返して、ほおっ、と深く息を吐き出す。
何も見えないけど、もう大丈夫だと思えた。




