17.香りに誘われる
何が何だかわからない内に、終業の時刻を迎えていた。
教員室から、一人また一人と教師たちが出ていく。
その様子を、自分の席に座ってぼんやりと眺める。
誰も何も聞いてこない。好奇の視線を向けてこない。
アスナ先生さえ、ダレストン先生に「先約がある」と言われてあっさりと帰っていった。
いえ、待って。先約って何。そんな話していないわ。
隣の席に座るダレストン先生に視線を向けた。室内には、もう二人しか残っていなかった。
手元の書類に何かを書き込んでいたダレストン先生が、ふっと息を吐いて顔を上げた。
「顔に穴が空きそうだな」
「っ!?」
黄金色がこちらへ向けられる。
「そんなに見つめていたら、俺に喰われてしまうぞ?」
からかうような声に、肩の力が抜けた。
「ダレストン先生でも、冗談を言われるのね」
「そうやって、笑っている方がいい」
「えっ?」
言われて、頬に手を当てる。
「笑ってました?」
「ああ。とても綺麗で、見惚れそうだな」
「……っ」
途端に恥ずかしくなって目を伏せた。そんなに真っ直ぐ褒められたことなんて、今までなかった。
「さて。今日の仕事は終わりだ。どこに行きましょうか?」
書類を机の上で纏めて、ダレストン先生が引き出しに鍵をかける。
「あの、それなんですけど……お約束なんて、してました?」
「アスナ先生と飲みに行く方がよかったですか?」
クククッと笑いながら、ダレストン先生が尋ねた。言葉遣いを戻されてしまうと、急に距離が開いたような気持ちになる。
「いえ、そういうわけでは……」
「リリンカ先生には今まで恋人がいましたから。誘うことも口説くことも我慢していたんですよ」
「何を……」
椅子の向きを変えて、ダレストン先生が真っ直ぐにわたしを見つめてきた。
「ダ、ダレストン先生……?」
「カリファーだ」
「えっ?」
「カリファーと、呼んでほしい」
どうしよう。彼の瞳から目を逸らせない。
「あ、あの……」
「勿論、貴方が嫌でなければだが」
「で、ですが。わたしたちは、その、職場の同僚で、あの……」
わたわたと言い訳していると、ダレストン先生が微笑んで立ち上がった。
「呼び方など、こだわりはなかったんだが。あの男のことは名前で呼んでいて、俺のことはいつまでも家名で呼ばれるのは、面白くない」
えーっと。
サラジ先生のことかしら。でも恋人同士だったのだし。
すっと、大きな手が差し出された。
「……?」
「明日は試験休みでしょう?今夜、初めての酒を飲んでみませんか?」
とても魅力的な誘いだった。彼と一緒に過ごすのは、きっと楽しいと思う。
でも、恋人と別れてすぐに別の男の人と二人きりで過ごすなんて、ふしだらな女と思われないかしら。
「何を考えているのかよくわかる顔をしているが。弱った女につけ込むようなことは、俺はしないぞ」
言い当てられて、一気に顔に熱が集まった。
「食事をともにして、楽しく酒を飲んで。賑やかに過ごしてもいいし、静かに語り合ってもいい。貴方がしたいように時を過ごせばいいんです」
悪戯っぽく言われて、目に涙が溜まっていくのがわかった。
どこまでもわたしの意思を尊重してくれるその言葉が、とてもとても嬉しかった。
小さく頷いて、彼の大きな手にそっと手を重ねる。
「……普通に、話してくださいな」
「ん?」
「言葉遣い……何だか距離を感じてしまって」
彼の手がピクリと動いた。
「あ……ごめんなさい。はしたないことを。忘れてくださ……」
「いいんだな?」
「えっ?」
ぐいっと手を引かれて、いつの間にか立ち上がっていた。
包み込まれるような安心感。
ふわりと香る、甘い甘い花のような香り。
脳の髄まで痺れるような、酩酊するような芳香だった。
「ダレストン先生、は……いい香りがしますね」
体の内側の、一番深いところに入ってくるような不思議な感触。
でも、サラジ先生に感じたような気持ち悪さが微塵もなかった。
「とても、いい香りで。ずっと側にいたくなるような……」
「光栄だ」
彼の返事にハッとした。
わたし、今何を口走ったの――?
「あ、いえっ、あの……」
「お前は、我慢しすぎだ」
力強い声がそう告げる。
さっきまで「貴方」って呼んでたのに。感情が高ぶると、「お前」になるのかしら。
何度か、そう呼ばれたことを思い出す。でも、ダレストン先生にそう呼ばれるのは、何故か嫌ではなかった。
「生真面目なのは美点だが。たまには我儘を言ってもいい」
「わがまま……」
「そうだな。例えば……国一番の高い店で豪勢な食事がしたい、とかな」
片目を瞑ってみせたダレストン先生の表情に、笑い声を堪えきれなかった。




