16.決別
世界から音が消えたみたいだった。
温度も気配もなく室内に立っていたのは、黄金色の瞳を眇める長身の男。
動きを止めたサラジ先生を、ようやく押しのける。
乱れた襟元を直し、必死に彼から離れた。
伸ばされた手を避け、濡れた口元を袖で乱暴に拭う。
ダレストン先生の側に立てて、ようやく呼吸ができた。
「リリンカ先生は、思った以上に勇敢だな」
「えっ?」
「その選択を尊重しよう」
そう告げて、ダレストン先生がサラジ先生を見据える。
「っ!貴様、何故……」
「人気のない場所で、嫌がる女性を襲う。呆れるほど低俗だな」
「なっ!?」
部屋の温度が急激に下がったような気がした。
ダレストン先生は、声を荒げてなんていないのに、静かな怒りが空気を震わせているのが伝わってくる。
「貴様には関係ないっ!僕と彼女の問題だ!」
「吠えるしか能がないのか。その彼女が、すでにお前から離れることを決めているんだろう」
「何を……っ」
「このことは、学院長に報告しておく。学び舎という神聖な場で、私欲の為に彼女を穢そうとしたことは、許されることではない」
資料室の扉を開いて、ダレストン先生がわたしを促す。
「……っ、待て!ナスティー!」
最後まで、話を聞いてくれない人ね。
溜息を吐いて、サラジ先生を見つめる。
「二度と、ナスティーと呼ばないでください。
貴方と過ごした時間、楽しい時もありました。ですから、騙したことはもう責めません」
「騙してなんか……」
「今まで、ありがとうございました。ご婚約者様と、お幸せに」
「!!」
驚愕に目を見開くサラジ先生に、背中を向けた。
わたしの言葉の何に驚いたのかはわからないけれど、もう関係ないわ。
静かに、資料室から外へ出た。
隣をゆっくりと歩いてくれるダレストン先生が、とてつもなく大きな存在に思える。
大人の男の人というだけではなく、そう、何もかも忘れさせてくれそうな包容力を感じるのよ。
深く息を吸い込みながら、今頃になって体が震えてきた。
きっと、酷い顔をしているだろう。それでも、これだけは伝えなくては。
「ダレストン先生。来てくださって、ありがとうございました」
よかった。ちゃんと、お礼を言えた。
わたしを見下ろす黄金色が柔らかく細められた。
「リリンカ先生が、自分で頑張ったんでしょう?」
どうしてこんなに、優しいのかしら。
「それでも、あのまま二人きりだったなら、どうなっていたかわかりません」
「……そんなことは、させないがな」
「えっ?」
時々、ダレストン先生の呟きを拾えない。
「何て仰いました?」
「いや、何でも」
「……?」
教員室へ向かいながら、これからのことを考える。
仕事を続けるなら、サラジ先生とは今後も顔を合わせることになるだろう。
憂鬱だけど、仕方ない。
周囲の視線も、冷ややかになるかもしれない。でも、わたしは自分に恥じるところはないのだから、堂々としていなくては。
それと――。
「婚約者の方への慰謝料って、どのくらいが相場なんでしょう?」
「慰謝料?」
ダレストン先生の片眉が上がった。
「ええ。知らなかったとは言え、サラジ先生には婚約者がいらっしゃったんですもの。慰謝料をお支払いするのは当然ですわ」
「あの男に払わせればいいでしょう」
その言葉に吹き出してしまった。
「彼は婿入りと聞きました。慰謝料を払っても払わなくても、肩身の狭い思いをするはずですわ。それで、十分です」
憎いわけではなかった。
ただ、騙されていたことが悲しいだけ。
でも、けじめはきちんとつけたい。
「真面目ですね。そこが眩しいと思いますが」
「ダレストン先生?」
「いや。慰謝料については、あちらに直接聞いてみるのがいいのではないですか?」
「あちら?ご婚約者様のお家ですか?」
教員室の扉が見えてきた。
さっきの騒動を見ていた教師たちが残っているなら、中に入るのは気まずいわね。
「貴族の令嬢が相手なら、まずは手紙でも出してみてはどうでしょう?」
「手紙……」
「それと、フェンヤ先生に相談するといいでしょう」
ダレストン先生が、教員室の扉に手を掛けた。
「フェンヤ先生に?」
「あの女傑先生は、貴族の出身でしょう?こういった時の対処法にも、詳しいかもしれない」
「成程……」
そうだった。家を出ているとは聞いていたけれど、フェンヤ先生も貴族のご令嬢なのだった。
教員室に足を踏み入れる。
中にいた人たちの視線が一斉に向けられて、思わず身を竦ませた。
でも、すぐに視線が逸らされた。
「……?」
さっきの出来事など、何もなかったかのように、いつも通りの教員室の光景だった。
アスナ先生が、桃色の瞳を楽しそうに細めて手を振っている。
「リリンカ先生ぇ、試験お疲れ様でしたぁ。今夜ぁ、飲みに行きませぇん?」
「え、っと……」
噂話が好きなアスナ先生が、サラジ先生のことを聞いてこないとは思えなかった。
どうしたら、と思っていると隣からからかうような声が響いた。
「申し訳ない、アスナ先生。彼女は今夜は、私と先約があるんです」
「……!?」
「あらぁ。それじゃぁ、仕方ありませんわねぇ」
にこにこと笑ったアスナ先生が、荷物を抱えて教員室を出ていった。
一体、どうなっているの――?




