12.翌朝のハスアン
その夜、夢を見た。
ハスアンのことを考えて苦しくなって、明日に備えて早めに就寝した。
食事は喉を通らなかったけど、野菜をくたくたに煮た汁物だけを食堂で貰い、何とか水で流し込んだ。
吸い込まれそうな満月が、赤く光っていた。
誰かがわたしを呼ぶ。
闇の中、月明かりを背に立った、長身の男――。
でも、影になって顔が見えなかった。
差し出された大きな手に、そっと自分の手を伸ばそうとした瞬間。
ぐいっと引っ張り上げられたような感覚で目が覚めた。
「……っ、はあっ、はあっ」
汗でびっしょりと背中が濡れていた。
酷く、喉が渇く。
寝台から起き上がり、震える足を動かして机まで移動して、水差しから水を注ぐ。
一息に飲み干して、息を吐いた。
「何だか、体が熱いわ……」
頭もぼんやりする。
額に手を当ててみても、熱はないようだった。
窓から外を見てみる。すでに日は昇り、学院に向かう用意をしなくてはならない時間だ。
ぱんっ、と両手で頬を叩く。ぼんやりしている場合ではないわ。
学院でハスアンに会うかもしれないけれど、冷静でいなくては。
食堂に降りて、準備された朝食を何とか飲み込んだ。
現在教員寮に暮らしているのは、二十人ほどの教職員たちだった。
個室は男女で棟が分かれていて、食堂は共同。
朝は食べない人も多いから、食堂には三人ほどしかいなかった。
保健医のアスナ先生の姿を見つけて、近づく。
「おはようございます、アスナ先生」
牛乳を飲んでいたアスナ先生に、そっと声を掛けた。
「あらぁ。おはようございますぅ、リリンカ先生ぇ」
空にした食器の乗った盆を持ったまま、通り過ぎようとした。
「リリンカ先生ぇ、昨日は何かありましたのぉ?」
探るような声に、足が止まる。
「どうしてですか?」
冷静に。冷静に――。
「いいえぇ。夜更けにぃ、寮の入口が騒がしかったみたいですわぁ」
「えっ?」
「あたしはぐっすり眠ってたんですけどぉ。リリンカ先生に会わせろってぇ、騒いでる人がいたみたいぃ。誰かしらねぇ」
わたしに、会わせろ――?
そんな心当たりは一人しかいなかった。
「どなただったんでしょうね。始業に遅れてしまいますから、失礼しますわ」
「……はぁい。行ってらっしゃぁい」
まだ何か言いたげなアスナ先生を残して、盆を下げ口に置いたわたしは個室まで駆け上がった。
上着を着込み、鞄を手にする。
窓の覆い布を閉める前に、外を覗いてみた。
……いる。
教員寮の門前で、ハスアンが仁王立ちしていた。
どくどくと胸が鳴り始める。
呼吸すら上手くできないような気がして、深く深く息を吸い込んだ。
落ち着いて。大丈夫よ。
ハスアンだって、仕事があるんだから。
学院まで一緒に行くのを、きちんと断ればいいだけだわ。
手の震えを抑えて、顔を上げて教員寮の入口へ向かった。
立っているハスアンに、教師たちが意味ありげな視線を投げて行く。
毎日わたしを送り迎えしているのを知っている彼らは、憔悴したような様子のハスアンに声を掛けずに通り過ぎている。
意を決して、足を踏み出した。
「っ、ナスティディア!」
空気を震わせるような怒号が響いて肩が跳ねたけれど、唇を噛みしめて彼の前で立ち止まる。
「おはようございます、サラジ先生。試験の準備がありますので、お先に失礼しますわ」
そう言って横を通り抜けようとしたわたしの腕を、ハスアンが力強く掴んだ。
痛みに顔をしかめそうになったけど、堪える。
「手を離してください、サラジ先生。それと、今日から送り迎えは結構ですわ」
「ナスティディア、怒ってるんだろう?わかってる。ちゃんと話をしよう」
「そんな必要はありませんけれど。でも、そうですね。決着はきちんとつけなければいけないと思っています。とにかく、手を離してください」
できるだけ、感情を込めないように言ってみる。
聞こえていないのか、ハスアンがさらに言い募ってきた。
「彼女とは、家が決めた政略でっ!僕は、君と未来を生きていきたいから、婚約は解消するつもりだったんだっ!」
そんなことを、今この場で言われても困るわ。
早く学院に行きたいのに、どうしたら手を離してくれるのかしら。
「サラジ先生。急いでいますの。お話はまたの機会にしていただけます?」
「聞いてくれっ!僕は君をっ、君だけを愛しているっ!」
他の教師たちの目があるのに、本当にやめてほしい。
冷めた目で見てしまったわたしに、ハスアンの拘束が緩んだ。
精一杯の力を込めて、ハスアンの手を振り払う。
「……っ」
「失礼しますわ」
再び掴まらない内に、さっさと歩き出した。




