107、成分無調整
「あぁーお金がないぃー」
湯煙のぼるその最中。
一枚の壁を挟んでは聞こえてくる馴染み深い声。
「ひもじいぃー」
誰であるかなどと最早言うまでもなく。
「聞こえてるんでしょー」
だからと言って返事をするわけにもいかず。
「もっと贅沢したいぃー」
その者は自身の欲望に指向性を持たせてはうわごとのように。
「楽したいぃー」
口にすれば叶うとでも思っているのであろうか。
制止しなければどこまでも続くであろうその願い。
「あぁー。返事しないとそっちいくわよー?」
聞き届けるべくその場を後にした。
「……暑いな」
自然とそう言葉にしてしまい、気温が高いことをする必要もないというのに再認識してしまう。
これで湿度が高かったらと思うと用があっても外出を控えたくもなっただろう。
「チッ……」
こちらの言葉に対してか。
それとも暑さに対してか。
自身の隣で鳴った舌打ちに目を向ければ。
ふにゃふにゃだった彼女。
エルヴィと意図的では無いとはいえ、偶然にも目線が合わされる。
「大丈夫ですか?」
暑さに慣れていないのか。
機嫌悪そうにしている彼女に対して。
そのまま目線を外してしまうのもどうかと思い、不要であると感じながらもそれとなく体調を伺ってみる。
「チッ……」
こちらの気遣いが不快であったのか。
それとも流れる汗が不快なのか。
どちらにしても機嫌だけでなく、体調まで崩されてはこちらとしても手に負えないわけで。
「少し涼んでいきましょうか?」
偶々目に入ったその場所を前に。
予定外の提案を口にしてみる。
「……勝手にしろ」
目線を逸らしては苦々しくも言葉を吐き出す。
強がってはいるものの、やはり相当堪えているようだ。
「寄って行きましょう」
そうして嫌そうな顔をしている彼女を先導するように。
何とも涼し気な雰囲気を醸し出している店内へと足を向ける。
「いらっしゃいませーっ」
踏み入れては暑さに響かない程度の丁度いい声がこちらを通り過ぎ。
案内されるまでも無く、手近な空いた席へと腰を下ろし始めたエルヴィの後を追うようにして対面へ。
「チッ……」
今日何度目かのそれ。
「何見てんだよ」
同じ卓を向かい合って囲んでいる性質上。
それは必然であり、仕方の無い事だと思うのだが。
分かっていても許容は出来ないと、こちらをその鋭い視線で射抜いてはこれでもかと主張してくる。
「いや……」
居心地の悪さにはもう慣れた、と言ったら嘘になるか。
日に日に増して当たりが強くなっているような気がするが、それはきっと気のせいではなく。
「お決まりですかーっ?」
暑さを吹き飛ばすようにしてやってきた。
快活なその声に気付くのが遅れてしまい。
「あぁ、えーっと、冷たい飲み物を二……つ?」
適当に注文を済ませてしまおうと目線を動かせば。
そこにはよく知った顔、などと一々誤魔化す必要も無い。
給仕服に身を包んでは、可憐な表情をこちらへと向けているジーナがいた。
「あははっ、びっくりしたっ?」
ジーナは笑顔のままに問いかける。
「マリアも一緒なんだよっ? リンが来たら奥に引っ込んじゃったけどっ」
ジーナは困った困ったと口ではそういいながらも笑顔を崩さない。
「リンはデートかなっ?」
お盆を胸元に。
表情を変えずしてただこちらを見据える。
「チッ……どこをどうみたらそうなるんだよ」
何故かエルヴィが割って入ってはその問いを真っ向から否定する。
「ぼくはリンに聞いてるんだよっ?」
だがジーナもジーナだ。
あくまでエルヴィは部外者であると、その言葉で以って強調してはこちらへと焦点を戻す。
「チッ……」
舌打ちが癖になってしまわなければいいが。
そんなことを思ってしまうのは、エルヴィが外見に見合わずまだ幼い少女であることを知っているからこそだ。
「リンっ?」
ジーナは答えるまで帰さないとしながらも、完全にその業務を疎かにしつつある。
「ジーナ」
「なにかなっ?」
「ありがとう」
「へっ?」
「似合ってるよ」
「――っ」
「冷たい飲み物を二つ。頼めるかな」
「――」
ジーナはこちらの言葉にこくこくとその場で頷いては、ぎこちない足取りと共に奥へと引き返していった。
「チッ……」
指摘する立場にはないのだが。
それは余りにも目立ちすぎる素行であって。
このまま見過ごし続けては本人に取って良くはない影響を及ぼす事にもなりかねない。
「あまり言えた事ではないのですが」
「なら言うな」
鋭い返答でこちらのその先に続いたであろう言葉を無き者とする。
何とも気が強い少女だ。
しかし、こちらとしても彼女を思っての行動。
おせっかいで鬱陶しいと思われるだろうが、それでも言葉にしないわけにはいかず。
「舌打ちは控えた方がいいですよ」
「チッ……」
助長する結果になってしまった。
まぁ、一応義理は果たしたというべきか。
ただの自己満足でしかないが、それでも少しは考えて貰える機会。
問題提起になった可能性はある。
もっと言えばこの先、そうしないとは限らないわけで。
「チッ……」
店内には落ち着いた雰囲気が流れている。
沈黙というのもまた一つのあるべき姿なのかもしれない。
それから間もなくして。
「お、お待たせ……しました」
先程と打って変わって、ジーナではなくマリアがこちらへと顔を見せる。
「ありがとう」
ただ言えるのはそれだけ。
いや、今はそれだけでいいだろう。
「は、はい。あ、あの、ごゆっくり……」
「ははっ、ありがとう」
業務の邪魔になるのも気が引けると短く繰り返す。
その時笑ってしまったのは、何と言うか。
あんまりにも恥ずかしがっているのでこちらとしても思わず、と言った所だ。
「な、なんでわらうんですかっ」
それがマリアには気にかかったのか。
いつもとは違う表情でこちらを追求する。
「いやいや、ごめん。マリアにもこんな一面があるんだなって。その、安心してさ」
「……リンさんの言っていることはよく分かりません」
「普段見れないマリアが見れて嬉しかった? かな」
「…………し、失礼します」
マリアもジーナと同様に。
そう言い残してはぎこちない動作と足取りで奥へと戻って行った。
「さて――」
目の前に並べられた二つのグラス。
中には色のついた初めて見る液体が注がれている。
その上に浮かぶのは柑橘系であろう果実の輪切り。
こちらが手伸ばせば向かいからも同じように手が伸ばされて――。
「チッ……」
舌打ちがこちらの耳へと届けられ。
気合を入れなおすように勢いよく呷ったそれは。
ジーナとマリアに甘えてはいられない。
そんな自身の思いと相反するようにとても甘かった。




