第2話「蠢(うごめ)く影と不気味な生起」
第1幕「蘇よみがえった巨悪」
『少なくとも、
あの男が生み出す悪は終わる』
『命を終わらせることと、
悪を終わらせることは違う』
『ならば、お前が教えてみろ』
鬼が牙をむいた。
『命を救うことで、
悪を終わらせられると
いうのならな』
死神は、
初めて鬼を正面から見た。
『その言葉、忘れるな』
*
翌日、午前9時12分。
大学病院の集中治療室。
藤原龍治が、
人工呼吸器につながれていた。
搬送時、意識はなかった。
複数の骨折。
内臓損傷。
大量出血。
医師たちは最善を尽くしたが、
容体は悪化する一方だった。
モニターに表示された心拍数が、
急激に低下していく。
「心拍が落ちています!」
「アドレナリン準備!」
「血圧が維持できません!」
医療スタッフの声が飛び交う。
やがて、
心電図の波形が平坦になった。
「心停止!」
蘇生処置が始まった。
胸骨圧迫。
薬剤投与。
電気ショック。
しかし、反応はない。
担当医が時計を確認した。
救命の可能性は、
限りなく低かった。
そのとき、処置室の扉が開いた。
「交代します」
白衣の男が入ってきた。
村上彰だった。
「村上先生、今は――」
「分かっています」
村上は患者の顔を見た。
藤原 龍治。
数え切れないほどの人間を
不幸にし、
それでも自分だけは
安全な場所に立ち続けてきた男。
村上は、
藤原の手首に指を当てた。
脈はない。
瞳孔は開き始めている。
死は、
すぐそこまで来ていた。
村上は、
白衣の内側から
小さな
金属製の容器を取り出した。
通常の救急医療では
使われないものだった。
容器の蓋を開ける。
中には、
透明な液体が入った
小さな注射器が
収められていた。
「先生、それは何ですか?」
看護師が尋ねた。
「私の責任で使います」
「しかし、
承認された薬剤では――」
「責任は私が負います」
村上の声は穏やかだった。
だが、
その目には、
医師としての迷いがなかった。
村上は注射器を手に取り、
藤原の腕に針を刺した。
透明な液体が、
ゆっくりと体内へ入っていく。
その瞬間だった。
村上の背後に、
白い霧が立ち上った。
人間には見えない。
医療スタッフにも、
ベッドの上の藤原にも。
ただ、
村上の内側にいる死神だけが、
その姿を現していた。
『なぜ、この男を選ぶ?』
死神の声が、
村上の意識の奥に響いた。
『まだ終わっていない。』
村上の心の中に、答えが浮かんだ。
『この男には、まだ役割がある。』
『悪を再び世に放つつもりか?』
『悪を
放つのではない。命を戻すのだ。』
『その違いを、
お前は説明できるのか?』
村上は答えなかった。
ただ、
藤原の顔を見つめていた。
そのとき、
心電図の波形が動いた。
「心拍、再開!」
医師が叫んだ。
「血圧が戻っています!」
「そんな……」
看護師が、
信じられないものを見るように
モニターを見つめた。
藤原の胸が上下し始めた。
止まっていた心臓が、
再び血液を送り出している。
村上は注射器を片づけた。
その顔に、喜びはなかった。
あるのは、
観察者の冷静さだけだった。
「経過を記録してください。
血液検査も、
通常の項目だけでなく、
可能な限り詳細に。……」
「先生、今の薬剤は?……」
「私が管理します」
村上はそう言い残し、
処置室を出た。
廊下の窓から、
朝の光が差し込んでいた。
村上は
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
その背後に、
死神の影が重なっている。
『お前は、死を覆した。』
『覆してはいない。』
『では、何をした?』
『いまに分かる。』
死神は黙った。
村上の中で、
何かが静かに沈んでいく。
命を救ったという
満足感ではない。
自分の選択が
正しかったと証明したい
欲求でもない。
*
同じ時刻。
人間の世界よりも高い場所で、
鬼が立ち上がった。
『死神め……』
鬼の足元で、
赤い炎が渦を巻いた。
『俺が
裁こうとした男を、蘇らせたか。……』
死神は、白い霧の中から答えた。
『お前は裁いたつもりだった。
だが、
まだ使い途があった。』
死神の声に、
わずかな冷たさが混じった。
『お前は、
人間を動かすだけだ。
最後に命を
終わらせるのは、私の領分だ。』
『ならば、見届けてやる。』
鬼の目が燃え上がった。
『あの男が
再び悪をなすなら、
紀藤が裁く。
紀藤が迷うなら、
私が迷いを焼き払う。』
『そして、
紀藤が
自分の過ちに気づいたら?』
鬼は答えなかった。
死神は続けた。
『お前は、
己が宿った人間が
自分の意志で動き始めることを、
恐れているのではないか?』
空間が揺れた。
鬼の角の先で、炎が弾ける。
『黙れ』
『紀藤が悪を裁くのか。
それとも、お前が
紀藤を使って悪を裁くのか?』
『黙れと言った!』
鬼の咆哮が、
見えない世界を震わせた。
だが、死神は退かなかった。
『ならば、
私も見届けよう。
村上が命を選び、
その結果を引き受けるまで。』
2つの影の間に、
火花のような光が走った。
人間たちの知らない場所で、
戦いが始まっていた。
それは、
正義と悪の戦いではない。
命を裁こうとする者と、
命を選ぼうとする者の
戦いだった。
*
午後3時20分。
集中治療室で、
藤原 龍治が目を開いた。
視界はぼやけていた。
全身が痛む。
喉には管が入り、
腕には点滴がつながっている。
それでも、意識は戻っていた。
藤原は、
ゆっくりと視線を動かした。
ベッドの脇に、
村上が立っていた。
「ここは……」
「病院です」
「俺は、死んだのか?」
村上は少し考えた。
「一度、心臓は止まりました。」
藤原は、乾いた唇を動かした。
「じゃあ、誰が助けた?」
「私です」
藤原は村上の顔を見つめた。
医師の目は穏やかだった。
だが、その奥には、
説明のつかない何かがあった。
「なぜだ?」
藤原が尋ねた。
「なぜ、俺を助けた?」
村上は、
ベッド脇のモニターを確認した。
「あなたには、まだ
やらなければならないことがある。」
藤原は黙った。
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に奇妙な感覚が生まれた。
死ぬはずだった。
確かに、
自分は死ぬはずだったのだ。
それなのに、戻ってきた。
誰かが、
自分をこの世界へ引き戻した。
「……借りができたな。」
藤原が呟いた。
「借りだと思うのなら、
そう思っていてください。」
村上は微笑んだ。
「ただし、
私に返す必要はありません。」
「じゃあ、何を望んでいる?」
明日 18:40 に投稿します。




