【File.02】人喰い宿の帳簿(4/5)
「アァァァッ! 腕が、俺の腕がァァァッ!!」
老主人の絶叫が、血生臭い地下室にこだました。
縦に裂けた巨大な顎を持つ怪異が、老主人の両腕を拘束していた『黒い泥』を無造作に引きちぎる。
凍傷で完全に壊死していた彼の両腕は、いとも容易く肩から『ボキリ』と嫌な音を立てて千切れ落ちた。
「ひぎぃぃぃっ!!」
「お爺さんッ!!」
両腕を失い、血だまりの中にのたうち回る夫を見て、階段にへばりついていた老婆が悲鳴を上げる。
『あら、ごめんなさい。ちょっと力加減を間違えちゃったわ。でも、ちょうどいいかしら』
怪異は、裂けた顔の奥底でチロチロと長い舌を揺らしながら、老主人が落とした『巨大な肉切り包丁』を拾い上げた。
その漆黒の虚ろな瞳が、三日月のように細められる。
『あなたたち、この宿の「料理人」なんでしょう? だったら、あなたたちのレシピ通りに調理してあげるのが礼儀よね』
怪異はゆっくりと、血の海で痙攣する老主人の足元に歩み寄った。
『ええと、さっきなんて言ってたかしら? ……そうそう。「まずは血抜きからだ。上等な服が汚れたら売値が下がる」だったわね』
「やめ……やめろ……ッ!!」
『いいえ、やめないわ。あなたたちも、旅人が泣いて命乞いするのを、笑って聞き流しながら切り刻んできたんでしょう?』
振り上げられた肉切り包丁が、迷いなく老主人の両足の腱を叩き切った。
「ギャアアアアァァァァッ!!」
『あははっ! いい悲鳴! 鮮度抜群ね! 次は皮剥ぎかしら? それとも、骨を砕くのが先?』
「やめて! お願い、助けて!!」
階段の上から老婆が泣き叫ぶ。しかし、怪異は泥のように変化した自らの『影』を伸ばし、老婆の足首に絡みつかせた。
「ヒッ!?」
『どこへ行くの? あなたも立派な「メインディッシュ」よ。逃がすわけないじゃない』
ズルズルと、老婆の体が容赦なく階段から引きずり下ろされる。
そして、無造作に『解体台』の上へと放り投げられた。今まで、彼女自身が何十人もの旅人の持ち物を漁り、死体を転がしてきた、あの血塗られた台の上に。
「い、嫌だ……! 嫌だぁぁぁっ!!」
『ふふっ。自分がまな板に乗る気分はどう? 最高でしょう?』
怪異が老婆の顔を覗き込んだ、その瞬間。
老婆の視界の端で、部屋の隅に積まれた『旅人たちの骨の山』が、カタカタ、カタカタと不気味な音を立てて震え始めた。
「……え?」
見間違いではない。
骨の山から、青白い燐光のようなものが立ち上り、次々と『人間の形』を成していく。
毒を盛られて死んだ若い商人。
身ぐるみを剥がされた吟遊詩人。
そして、つい数日前、名物のシチューを美味しそうに食べていたはずの、幼い子供を連れた家族連れ……。
彼らの亡霊が、虚ろな目で、解体台に乗せられた老婆をぐるりと取り囲んでいた。
『……あ、あつい……』
『……いたい、いたいよぉ……』
『……なんで、こんなこと……』
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!! 来ないで! あっちへ行って!!」
老婆が狂ったように手足をバタつかせるが、亡霊たちは無表情のまま、彼女の体を冷たい手で押さえつけた。
何十人もの怨念が、彼女の手首を、足首を、首筋を、万力のように締め上げ、解体台に完全に縫い付ける。
『ほら、あなたたちが食べてきた「食材」たちも、調理の手伝いをしてくれるってさ』
怪異は裂けた顎から涎を滴らせながら、老婆の腹の上にドスンと馬乗りになった。
「や、やめ……アァァァァァッ!!」
「ばあさん! ばあさぁぁぁんッ!!」
両腕両足を失い、床で血だるまになった老主人の目の前で。
怪異による、生きたままの凄惨な『解体ショー』が始まった。
肉切り包丁が骨を断つ音。肉が引き裂かれる音。そして、老夫婦の絶望に満ちた絶叫が、地下室に響き渡る。
『あははははっ! 最高よ! やっぱり、他人の痛みで太った悪人の肉は、脂が乗ってて最ッ高に美味しそうね!!』
しばらくして。
完全に声帯が潰れ、ピクピクと痙攣するだけの「肉塊」になり果てた二人の前に、塞がっていたはずの地下室の扉が、ギィィィ……と重い音を立てて開いた。
『さあ、下ごしらえはバッチリね。あとは、あなたたちの一番の得意料理にするだけよ』
怪異は、まだ微かに意識のある老夫婦の「肉塊」を両手にぶら下げ、階段をゆっくりと上っていく。
行き先は、厨房。
彼らが今日のためにグツグツと煮込んでおいた、燃え盛る暖炉の上の『特製肉シチューの鍋』の中だった——。




