【File.02】人喰い宿の帳簿(5/5)
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりと共に、峠の森に爽やかな朝日が差し込んだ。
「うぅ……っ、寒ぃ……。背中が痛ぇ……」
宿屋から少し離れた森の中。
木の下に停めた荷馬車の御者台で丸まっていた行商人が、毛布にくるまりながら目を覚ました。
昨夜の土砂降りが嘘のような晴天だ。隣を見ると、相棒の猫人はすでに起きており、荷台の上で器用に顔を洗っている。
「おはようニャ。ひどい寝相だったサ」
「お前が『あの宿には泊まれない』なんて言うからだろ! おかげで風邪引きそうだよ。……なあ、もう朝だし、せめて温かいお茶くらい貰いに行こうぜ。文句の一つも言ってやりたいしな」
行商人はぶつぶつと文句を言いながら馬車を降り、昨夜逃げ出した宿屋『木漏れ日亭』へと向かった。猫人もやれやれと首を振りながら、その後を追う。
カラン、コロン……。
扉を開けると、宿の中は奇妙なほど静まり返っていた。
「すいませーん! 誰かいますかー!?」
行商人が声を張るが、返事はない。
人の良さそうな老夫婦の姿はどこにもなく、客席には昨夜のまま、誰の手もつけられていない食器がポツンと残されている。
ただ一つ、厨房の暖炉の火だけが赤々と燃え続けていた。
その上で、巨大な鉄鍋がグツグツ、ボコボコと重い音を立てて煮立っている。
「なんだ、出かけてんのか? ……おっ、いい匂い。昨日の特製肉シチュー、まだ煮込んでるみたいだな」
空腹に耐えかねた行商人が、ふらふらと鍋に近づいていく。
中を覗き込もうとした、その時だ。
「……やめておくニャ」
猫人がスッと行商人の前に立ち塞がり、尻尾でピシャリと彼の足を叩いた。
「え? なんでだよ。ちょっと見るくらい……」
「一生、肉が食えなくなるトラウマを抱えたいなら好きにするサ。……ただ、その鍋の中身は、昨日の夜より随分と『アク』が浮いてて、醜く濁りきってるニャ」
猫人の金色に光る縦瞳孔が、鍋の奥底に沈む『何か』を冷たく見据えていた。
そのただならぬ雰囲気に、行商人はゴクリと生唾を飲み込み、そっと鍋から距離を取った。
「……わ、わかったよ。気味が悪いし、とっとと出発しようぜ」
二人が足早に宿を出て、馬車に戻ろうとしたその時だった。
「あら。おはようございます」
背後から、鈴を転がすような美しい声がした。
振り返ると、昨夜すれ違った『美しい単独の女旅人』が、宿の裏手から優雅な足取りで歩いてきたところだった。
土砂降りの夜を過ごしたはずなのに、彼女の衣服には泥ひとつ跳ねていない。漆黒の髪も、不自然なほど艶やかにまとまっている。
「あ、おはようございます……。昨日はよく眠れましたか?」
行商人が間の抜けた挨拶をすると、女旅人はふんわりと微笑んだ。
「ええ、とても。おかげで……すっかり『満腹』よ」
女旅人の視線が、行商人の足元にいる猫人へと向けられた。
『……ふふっ。本当に、鼻の利く賢い猫ちゃんね』
女旅人は、その美しい赤い唇から、人間にはあり得ないほど長い舌をチロリと出し、艶かしく口元を舐め上げた。
そして、二人に背を向け、楽しげな鼻歌を歌いながら峠道を下っていく。
「なんだあの人。綺麗な人だけど、ちょっと変わって……おい、どうしたんだよお前?」
行商人が足元を見ると、猫人が全身の毛を逆立て、尻尾をタヌキのように太くしてガタガタと震えていた。
「バ、バケモンだニャ……。ヒゲが粟立つような、特級のバケモンだったサ……!」
「は? バケモンって、あの女の人がか!?」
猫人は大きく息を吐き出し、震える足で荷台へと飛び乗った。
「……他人の命を食い物にしていると、最後は自分が一番の『ごちそう』として上位の捕食者に狙われるのサ。因果応報……欲の果てには、自分を煮込む極上の鍋が待ってるってことだニャ」
「な、なんだよそれ! 意味わかんねぇよ! 早くここから離れようぜ!」
行商人は半狂乱で手綱を掴み、「ハイッ!!」と馬の尻を思い切り叩いた。
ガラガラと音を立てて、馬車は逃げるように峠道を駆け下りていく。
朝日が昇りきる頃。
静まり返った『木漏れ日亭』の厨房では、誰も食べる者のいない極上のシチューが、今日もグツグツと、二つの醜い『肉塊』を煮込み続けていた。




