【File.10】微笑む黄金都と、命をすり減らす不労所得(3/4)
チャリン、と。
トマが慌ててポケットから放り投げた数枚の銅貨が、石畳の上で冷たい音を立てて転がった。
「くそっ……! なんだ今の、気持ち悪りぃ感覚は……!」
トマは自分の右手を強く握り込んだり開いたりして、身体の異変を確かめようとした。外傷はない。だが、指先からジワジワと這い上がってきた『冷たい痺れ』のようなものが、確実に心臓の奥へと根を張った感覚があった。
「お兄ちゃん、ダメぇッ!」
ルミが泣きそうな顔でトマの胸に飛び込み、その小さな両手を重ねた。
「痛い痛い、飛んでいけッ!」
パァァァッ……と、ルミの純粋な浄化の光がトマの身体を包み込む。普段であれば、どんな強力な呪いも瞬時に焼き払う白銀の光だ。
だが。
「……え?」
ルミが戸惑いの声を上げた。
トマの胸の奥底に絡みついた『黒い根』は、ルミの光を浴びても消滅しなかった。それどころか、まるでスポンジが水を吸い込むように、ルミの浄化の光そのものを『対価』として吸収し、どこか見えない遠くの場所へと転送してしまったのだ。
「ルミの光が、吸い込まれちゃう……! 街の全部から、見えない糸みたいなのが引っ張ってるの……!」
「やめろルミ! それ以上魔力を使うな!」
トマは慌ててルミの手を自分の胸から引き離した。
「……無駄だニャ、ルミ。その呪いは単なる『毒』や『怪異の瘴気』じゃないサ」
足元のゼルギウスが、忌々しそうに転がった銅貨を睨みつけた。
「この街の経済システムそのものが、一つの巨大な『契約魔術』として構築されているんだニャ。この街で金を受け取り、消費のサイクルに同意した時点で、魂の口座が開設される。……個人の浄化魔法でどうにかなるレベルの因果じゃないサ。街全体のシステムを破壊しない限り、お前の命は自動的に『大銀行』へと引き落とされ続けるニャ」
「ふざけんな……! 勝手に契約しやがって。クーリングオフの期間もねぇのかよ……ッ!」
トマはギリッと奥歯を噛み締め、怒りを爆発させようとした。
――だが、その時だった。
(……あれ?)
トマは、自分の中に生じた決定的な『違和感』に気づき、ハッと息を呑んだ。
怒りが、湧かない。
つい数秒前まで、詐欺まがいの呪いに対して煮えくり返るような激しい怒りを感じていたはずなのに。その熱い感情が、まるで冷水を浴びせられたように、スゥッと嘘のように凪いでしまったのだ。
「……トマ?」
ゼルギウスが、不審そうにトマの顔を見上げる。
「あ、ああ……いや。なんだろうな、別に、怒るほどのことでもない気がしてきた……」
トマの口から、ポツリとそんな言葉が漏れた。
「だって、そうだろ? あの菓子屋のおっさんも、さっき死んだ男も、みんな幸せそうに笑ってたじゃないか。……俺も、ここで大人しく配当金を受け取ってれば、もう辛い旅も、危険な商売もしなくていい。ただ毎日、美味しいものを食べて、笑って暮らせば……」
スゥ……と。
トマの口角が、大通りの住人たちと全く同じ、完璧で空虚な『笑顔』の形に吊り上がろうとした。
「ッ!! 目を覚ますサ、この大馬鹿野郎!!」
ガブゥッ!!
「痛てぇッ!?」
ゼルギウスが鋭い牙で、トマの足首に本気で噛み付いた。
骨まで届くような物理的な激痛に、トマの脳内に強制的にアドレナリンが分泌され、霞みかけていた意識がバチンと現実に引き戻される。
「な、何すんだよ猫!!」
「自分の顔を鏡で見てみるサ! 今のお前、さっき砂になって死んだ男と全く同じツラをしてたニャ!」
「……ッ!!」
トマは背筋に氷柱を叩き込まれたような悪寒を覚え、自分の頬を両手でバシバシと強く叩いた。
「俺は……何を考えてたんだ……。感情が、恐怖すらも『吸い取られて』……代わりに、気味の悪い安心感が流し込まれてきやがった……!」
「それが、命をすり減らす不労所得の正体サ。怒りや悲しみといった『心の波』を強制的に徴収し、代わりに空っぽの幸福感(麻酔)を与える。……急ぐニャ。完全に魂が空っぽになれば、お前もあの男と同じように砂になるサ」
「……上等だ。俺の商売道具である『感情』と『ハングリー精神』を奪おうってのか。絶対に許さねぇ」
トマは己の頬を強くつねり、痛みを無理やり意識に留めながら、街の中心にそびえ立つ巨大なドーム状の建物――『エルドラド大銀行』へと向かって歩き出した。
* * *
エルドラド大銀行の中央ホールは、王宮すらも凌駕するほどの絢爛豪華な造りだった。
天井からは巨大な魔法石のシャンデリアが眩い光を放ち、大理石の床は鏡のように磨き上げられている。
何十もの窓口には長蛇の列ができており、エルドラドの住人たちが次々と「手続き」を行っていた。
トマは、大理石の柱の影に身を潜め、窓口のやり取りに聞き耳を立てた。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
窓口に座る銀行員が、完璧な笑顔で尋ねる。
「はい。最近、妻と喧嘩をしてしまいまして……。胸の中に『イライラ』と『悲しみ』が溜まっているんです。これを口座に預け入れたいと思いまして」
「かしこまりました。負の感情の預け入れですね。……査定の結果、こちらの感情は銀貨三枚の配当金に変換されます。これでまた、何も悩まずに笑って暮らせますね」
「ああ、ありがとうございます。大銀行様は本当に素晴らしい……!」
客の男が書類にサインをした瞬間、彼の顔からスッと『人間らしい疲労感』が消え失せ、代わりにツルンとした不気味な笑顔が張り付いた。そして、ジャラリと渡された銀貨を受け取り、嬉しそうに帰っていく。
「……見事なもんだな。人間の『負の感情』を買い取って、呪いの硬貨で支払う。客は嫌なことを忘れられてハッピーになり、金も手に入るから、喜んで自分の魂を売り渡すってわけだ」
トマは、恐怖を通り越して、その悪魔的なビジネスモデルの完成度に戦慄した。
「だが、おかしな話だニャ」
ゼルギウスが、長いヒゲをピクピクと動かしながら囁く。
「いくら魂のエネルギーを吸い取っているとはいえ、この街の住人全員に毎日タダで金を配り続けていれば、物理的な『資金(硬貨)』はいつか底をつくはずサ。だが、街には無限に金が溢れている。……どこから資金を調達しているのかニャ?」
「そこだよな。……どんな巨大な銀行だろうと、必ず『金庫(準備金)』がある。この呪いのシステムの中枢……つまり、吸い取った人間の魂を溜め込み、硬貨を無限に生み出している『バケモノの心臓部』が、この建物のどこかにあるはずだ」
トマは、ホールの奥――厳重な鉄格子と、武装した警備員たちに守られている『地下金庫への扉』へと鋭い視線を向けた。
「俺の感情が全部もっていかれる前に、あの地下に潜り込んで、元締めを直接ぶっ叩く。……ルミ、怖いならここで待ってるか?」
「ううん。ルミも行く。お兄ちゃんの中のからっぽ、ルミが絶対に治すもん」
ルミは小さな両手でギュッと拳を握り、決意の瞳でトマを見上げた。
「……よし。なら、商人らしく『視察』と行こうぜ」
トマは痛覚を刺激するために自分の手の甲を強くつねりながら、警備員の目を盗んで、地下金庫へと続く薄暗い階段へと足を踏み入れた。
地下へ潜るにつれ、上の階の絢爛豪華な空気は一変した。
大理石の壁は冷たい岩肌に変わり、空気はひどく澱んでいる。ルミが両手で耳を塞ぎ、「痛い……みんなが泣いてる音がする」と震え始めた。
そして、最下層。
厚さ数十センチはあろうかという、巨大なミスリル製の金庫の扉が、僅かに開いていた。
トマとゼルギウスが、息を殺してその隙間から中を覗き込む。
「……ッ!!」
トマは、声にならない悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の口を塞いだ。
広大な地下金庫。そこに「金貨」や「宝石」の山は存在しなかった。
代わりに金庫を埋め尽くしていたのは――何万、何十万という『人間の顔面』の皮だけを繋ぎ合わせたような、巨大で醜悪な、スライム状の肉の塊だった。
『フフフ……アハハハ……』
『悲シイ……怒リ……イライラ……』
肉の塊の表面に浮かび上がる無数の顔たちが、泣き、怒り、狂ったように笑いながら、ドロドロと蠢いている。
街の住人たちから吸い取られた「感情」と「命」の終着点。
これこそが、エルドラドの経済を回している元締め――『強欲と怠惰の呪物』が長い年月をかけて成長し、概念的な怪異と化した姿だった。
ズズズ……ッ。
怪異の巨大な肉の塊から、管のような触手が伸び、金庫の端に設置された巨大な鋳造機へと繋がっている。触手を通して、人間の感情のドロドロとしたエネルギーが機械へと注ぎ込まれ、ガシャン、ガシャンという音と共に、ピカピカに輝く真新しい『呪いの硬貨』が無限に吐き出されていた。
「……あいつが、人間の魂を金に変えるバケモノ……」
トマが冷や汗を流しながら呟いた、その時だった。
『――おや? 不正な口座アクセスを検知しましたよ。お客様』
背後から、ひどく丁寧で、氷のように冷たい声が響いた。
トマが勢いよく振り返ると、そこには、完璧な笑顔を顔に貼り付けた、大銀行の『頭取』らしき初老の男が、十数人の武装した銀行員たちを引き連れて立っていた。
「……チッ、見つかったか」
トマは咄嗟にルミを背後に庇い、腰の短剣に手を伸ばした。
頭取の男は、トマの敵意にも全く表情を変えず、首をコテリと傾げた。
「困りますね。ここは関係者以外立ち入り禁止です。……それに、あなた。先ほどから『怒り』や『恐怖』といった無駄な感情を不当に保持したままですね。それはエルドラドの規約違反です。……ただちに、その魂を強制的に【差し押さえ】させていただきます」
頭取が指を鳴らした瞬間。
トマの視界が、急激に暗転した。胸の奥に根を張っていた呪いが一気に暴走し、トマの心臓を直接握り潰すかのような強烈な冷気が全身を駆け巡ったのだ。
「ガ、ァッ……!?」
短剣が手から滑り落ち、トマはその場にドサリと膝をついた。
「お兄ちゃんッ!!」
「トマ!! ――クソッ、させるかニャ!!」
ゼルギウスが咆哮を上げ、黒猫の姿から強大な神獣の気配を爆発させようとした。
だが、ここは敵の心臓部。街中に溢れる数百万枚の「呪いの硬貨」の総意が、圧倒的な重圧となって彼らに襲いかかる。
感情を食い荒らす完全無欠のシステムの底で、三流商人の命のカウントダウンが、静かに、そして確実にゼロへと向かって進み始めていた。




