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本当にあった異世界の怖い話  作者: ぽてと
商人と猫

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【File.09】魂の競売人と、名もなき猫の精算(6/8)

「奪われたもんは、必ず取り返す。……それが俺たちの『商売』だろ、相棒」


薄暗い地下の廃棄場で、血まみれのトマが放ったその言葉は、猫人の魂の奥底にまで深く響き渡った。


『相棒』。

その言葉を聞いた瞬間、猫人の脳裏に、数年前の――トマと初めて出会った時の記憶が、鮮烈にフラッシュバックした。


* * *


ザガンに名前と力を奪われ、「呪われた黒猫の木彫り」に封印された彼は、数十年もの間、人間の強欲と悪意の中をたらい回しにされていた。

木彫りを手にした者は皆、最初は「精霊の加護があるかもしれない」と欲を出して祈るが、呪いの副作用で不幸に見舞われると、途端に手のひらを返して「この不吉なガラクタめ!」と罵り、木彫りを壁に投げつけ、泥水の中に蹴り捨てた。


(人間は皆、同じだニャ。自分の利益しか考えない、薄汚い生き物サ……)


封印の中で、彼の心は完全に人間への憎悪と絶望で固まっていた。

そんなある雨の日の路地裏。

悪徳商人に騙され、不良在庫の山と一緒に「絶対に売れない呪われた木彫り」を押し付けられたのが、まだ行商人として駆け出しだった青年――トマだった。


呪いの効果はすぐに現れた。

トマの引いていた荷馬車の車輪がぬかるみにはまって折れ、雨漏りで商品が台無しになり、トマ自身も泥のぬかるみに派手に転び、全身ずぶ濡れになった。


(さあ、俺を呪って川にでも投げ捨てるがいいサ。人間なんてそんなものだニャ)

木彫りの中で、彼は冷ややかに待ち構えていた。


だが。

泥だらけになったトマは、木彫りを拾い上げると、怒るどころか、情けない顔で「へへっ」と笑ったのだ。


『ひでぇ目に遭ったな。……でも、お前もずっとこんな薄暗い箱の中に詰め込まれてて、ひとりぼっちで寂しかったんだろ? 悪かったな』


トマは、自分が唯一持っていた乾いた布で、木彫りについた泥を丁寧に、優しく拭き取り始めた。


それからだった。

トマは、どんなに不幸なことが起きても、決して木彫りを捨てなかった。

それどころか、夜、野宿の焚き火の前で、ただの木彫りに向かって毎日話しかけてきたのだ。


『今日は干し肉が売れたぜ!』

『あそこの村のパンは固くて歯が折れそうだったな』

『いつか、世界中を回るでっかい商人になるのが俺の夢なんだ』


トマは木彫りに対し、富も、幸運も、何一つ願い事をしなかった。

見返りなど一切求めず、ただ純粋に「旅の道連れ」として、毎日毎日、木の表面が滑らかになるまで大切に磨き続けたのだ。


『人間の欲は底なしだ』というザガンの契約(呪い)を根底から覆す、損得勘定の一切ない、純粋な善意。

そのトマの「無欲の優しさ」が、数十年間、どんな魔術師にも解けなかったザガンの呪いの殻に、内側から亀裂を入れたのだ。


パリィィンッ!


ある朝、木彫りが砕け散り、黒猫の姿で顕現した彼。

それを見たトマは、恐怖するどころか、目を輝かせてこう言ったのだ。


『すっげぇ! お前、生きてたのか! ……なら、今日からお前は俺の【相棒】だな!』


* * *


(……そうだ。俺はあの時、こいつの底抜けの優しさに救われたんだニャ……)


廃棄場のゴミの山の上。

猫人は、ポロポロと流れていた涙を、前足で乱暴に拭い去った。


目の前には、あの雨の日と同じようにボロボロになり、それでも決して諦めない瞳で笑う青年の姿があった。

ザガンという絶対的な恐怖を前にしても、トマの根本は何も変わっていなかった。彼はいつでも、不器用で、損得抜きで誰かを助けようとする、大馬鹿な三流商人なのだ。


「……お前は、本当にどうしようもない大馬鹿だニャ、トマ」


猫人はゆっくりと立ち上がり、いつものようにフンと鼻を鳴らした。

その顔からは、先程までの怯えと絶望は完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、因果の獣としての誇りと、相棒への絶対的な信頼だ。


「……買い戻すって、どうする気サ? 俺の『真の名前』が記された契約書は、あいつの魂と直結してる。金貨を何万枚積んだところで、ザガンが手放すわけがないニャ。力ずくで奪おうとしても、あいつが俺の名前を呼べば、俺は一秒でお前を殺してしまうサ」


「分かってる。力でも魔法でも、俺たちはあいつに勝てねぇ」


トマはニヤリと、悪党以上に悪そうな笑みを浮かべた。


「だがな、あいつは『商人』だろ? 商人ってのは、目の前に自分の利益になる極上の【商談】をぶら下げられたら、絶対に話を聞いちまう生き物なんだよ」


「商談……?」


「ああ。俺の『全寿命』と『魂』を担保にして、奴のテーブルに座る。……そして、一瞬でも奴の警戒を解かせた隙に、俺の家系に代々伝わる、一生に一度しか使えない『秘伝の交渉魔法』を叩き込む」


トマの言葉に、猫人はハッと息を呑んだ。


「……まさかお前、あれを使う気かニャ!? 契約者同士の魂を強制的に結びつける、究極の専属契約……ッ! だが、あれは俺のような呪われたバケモノに使えば、お前の魂ごと呪いに引きずり込まれて、お前自身が破滅するリスクがあるんだサ!」


「リスクを背負わねぇ商人が、どこにいるってんだよ」


トマは、痛む足を引きずりながら、廃棄場の上――はるか上方に微かに見える、オークション会場の光へと視線を向けた。


「俺は、お前とルミを取り戻すためなら、なんだって賭けてやる。……それに、お前を信じてるからな。俺の魂が呪いに食われる前に、お前がザガンをぶっ飛ばしてくれるってな」


「……」


猫人は、呆れたように深くため息をつき、そして、牙を剥き出して不敵に笑った。


「……しょうがないサ。三流商人の大博打に、この俺が乗ってやるニャ。死ぬときは一緒だサ、相棒」


猫人は、己の魂に残された僅かな魔力を極限まで振り絞った。

彼の周囲の影がドロドロと溶け出し、それが触手のように廃棄場の壁面へとしがみつく。


「捕まれ、トマ。……ルミを、あの光を、あんなクソ野郎のコレクションには絶対にさせないニャ!」


猫人の影が、トマの身体を包み込み、垂直の壁を猛スピードで駆け上がり始めた。

絶望の底に落とされた二人の逆襲が、今、始まる。


* * *


王都地下・オークション会場。

熱狂は、最高潮に達していた。


『金貨八万枚!!』

『十万だ! 金貨十万枚と、私が所有する鉱山の採掘権すべてを譲渡する!!』


客席の仮面の貴族たちは、理性を完全に失い、泡を吹きながら自らの財産を叫び続けていた。

ステージの中央で、ルミを封じ込めた水晶が、彼らの醜い欲望に反応するかのように、悲しげに明滅を繰り返している。


『素晴らしい! なんという情熱、なんという強欲! 人間の罪とは、かくも美しい!』


ザガンは、客席の狂乱をオーケストラの指揮者のように両手で煽り、陶酔しきった表情で笑い声を上げていた。


『さて! 金貨十万枚と鉱山の権利。……これ以上の高値は出ないようですね。では、この極上の光は、そちらの侯爵様のものといたしまし――』


ザガンが、落札を決定する黄金のハンマーを振り上げ、振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。


ドゴォォォォォォンッ!!!!


会場の最後尾、VIP席へと通じる分厚い鋼鉄の扉が、凄まじい衝撃音と共に内側から吹き飛ばされた。


『な、なんだ!?』

『何事だ!? 衛兵は何をしている!』


悲鳴を上げて逃げ惑う貴族たち。

舞い上がる土煙と瓦礫の中から、足を引きずりながら、一人の男が姿を現した。


服はボロボロに引き裂かれ、顔には血がこびりつき、立っているのが不思議なほどの重傷。だが、その瞳だけは、飢えた狼のようにギラギラと危険な光を放っていた。

彼の足元には、全身の毛を逆立て、殺意をむき出しにした黒猫が寄り添っている。


トマと、猫人だった。


「――待て待て待てェェッ!!」


トマは、血を吐きながらも、腹の底から響く大声で会場全体を怒鳴りつけた。


「三流のオークショニアが、勝手に商談を終わらせてんじゃねぇ! 競売はまだ終わってねぇぞ!!」


『……トマ……? それに、ゼルギウス……?』


ステージ上のザガンが、信じられないものを見るように目を細めた。

絶対的な恐怖で心を折ったはずの獣と、死に体のはずの商人が、再び自分の目の前に立っている。


『……ふふっ、ハハハッ! なんという生命力。まさにゴキブリですね』

ザガンは呆れたように笑い、パチンと指を鳴らした。


『衛兵! そのゴミ共を今度こそ細切れにして、犬の餌にでもしなさい』

ザガンの命令で、会場の四方から、重武装をした十数人の私兵たちが一斉にトマたちに斬りかかろうと殺到する。


だが、トマは一歩も引かず、懐からある物を取り出し、高々と掲げた。

それは、トマが王都の市場で商品を売って稼いだ、全財産の入った『大銀貨の袋』だった。


「俺は【客】だぜ、ザガン!!」


トマの叫びに、衛兵たちの動きがピタリと止まる。


「お前は『競売人オークショニア』だろ!? 客が値付けをしようとしてんのに、商品も売らずに武力で追い出すってのか! それが世界一の悪徳商人を名乗るお前の、ちっぽけな商売の流儀かよ!!」


その言葉は、見事にザガンの『商人としてのプライド』を刺した。


『……ほう』

ザガンは手を上げ、衛兵たちを下がらせた。彼の漆黒の瞳が、面白そうな玩具を見つけたように細められる。


『底辺を這いずる虫が、私に商談を持ちかけると? ……いいでしょう。では、値付けを聞こうではありませんか。現在の最高入札額は【金貨十万枚と鉱山の権利】。……あなたのその小さな袋に入ったハシタ金で、一体どうやって競り落とすおつもりで?』


ザガンの冷酷な問いかけに。

トマは、血だらけの顔で、ニヤァッと不敵な笑みを浮かべた。


「ルミの水晶と……もう一つ。お前が持ってる、その猫の『真の名前』が書かれた契約書。……その二つをまとめて、俺が買い取る」


トマは、大銀貨の袋を自分の足元に投げ捨てた。


「対価は、俺の【全寿命】と【魂の所有権】。……そして、俺が未来永劫稼ぎ出すはずだった『すべての財産』を担保としてお前に預ける!!」


『……なんだと?』

客席の貴族たちがざわめき、ザガンも一瞬、目を丸くした。


「俺は行商人だ。いつか必ず、この大陸中の富を牛耳るでっかい商人になる男だ。俺の魂と、未来の可能性……。枯れかけた貴族どもの金貨なんかより、俺の命を担保に取った方が、よっぽど長期的な【利益】を生む極上の投資だと思わねぇか?」


トマの命を懸けた、前代未聞の大博打。

それは、ザガンの最も深い場所にある『強欲』を、確実に揺さぶる一言だった。

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