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本当にあった異世界の怖い話  作者: ぽてと
商人と猫

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【File.09】魂の競売人と、名もなき猫の精算(5/8)

「――跪け、【真理の天秤・ゼルギウス】」


闇の競売人ザガンの薄い唇から、その『名前』が紡ぎ出された瞬間だった。

王都の地下空洞を満たしていた空気が、ガラスが割れるようにピシリと凍りついた。


「ガァ……ッ!? ギ、ギィィィ……ッ!!」


ザガンに飛びかかろうと宙を舞っていた猫人の身体が、まるで見えない巨大な手でハエのように叩き落とされ、大理石の床に激突した。

それだけではない。

彼の四肢が、本人の意志とは全く無関係に、まるで操り人形の糸を強引に引かれたようにして「ザガンに向かって平伏する姿勢」へと強制的に捻じ曲げられたのだ。関節がメキメキと悲鳴を上げ、猫人は口から血の混じった唾液を吐き出しながら、床に顔を擦り付けた。


「や、やめ……ろ……サ……! 俺を、その名で……呼ぶ、な……ッ!」


「おやおや。数十年ぶりに主人の声を聞いたというのに、ずいぶんと躾の悪い犬に戻ってしまったようですね。……いいえ、ただの野良猫でしたか」


ザガンは冷酷に笑いながら、床に這いつくばる猫人の頭を、高級な革靴で無造作に踏みつけた。


「ガハッ……!」

「おいッ! やめろォッ!」


遠くの壁際で血だまりの中に倒れ伏していたトマが、絶叫して手を伸ばす。だが、破裂した内臓の痛みと出血で、指先一つ動かすことすらできなかった。


「トマ、あなたはそこで特等席の観客として、自分の無力さを噛み締めていなさい。……さあ、いよいよ本日のメインイベントです」


ザガンが、宙吊りにされたルミの前に、禍々しい魔力を放つ『特製の封印水晶』を掲げた。


「いやっ……! お兄ちゃん! 猫さぁぁんっ!!」


ルミが泣き叫び、その小さな身体から必死に浄化の光を放とうとする。だが、ザガンの水晶はただの入れ物ではない。これまでに何万人もの魂の絶望を吸い込んできた、呪いのブラックホールだ。

ルミの放つ純白の光は、水晶の圧倒的な吸引力に飲み込まれ、彼女の身体ごとズルズルと水晶の内部へと引きずり込まれていく。


「やめろ……ルミッ! ルミィィッ!!」


トマの悲痛な叫びも虚しく、シュガァンッ!という鋭い音と共に、ルミの姿は完全に水晶の中へと吸い込まれてしまった。


ステージの中央。

ザガンの手には、中でお姫様のように目を閉じ、微かに白銀の光を脈打たせている『ルミの封印水晶』が握られていた。


『さあ、皆様! この究極の聖女の魂、ただいまより競売を開始いたします!』


ザガンが高らかに宣言した瞬間、客席の仮面の貴族たちから、地鳴りのような狂気の歓声が巻き起こった。


『金貨一万枚!』

『三万! いや、五万枚だ!!』

『私の全財産と、領地の権利書をすべて賭ける!!』


狂乱する欲の渦。

トマは自分の無力さに絶望し、血の涙を流しながら石畳を掻き毟った。

ザガンは熱狂する客席を満足げに見渡した後、足元で身動き一つ取れない猫人と、壁際で這いつくばるトマを見下ろし、虫けらを見るような目を向けた。


「さて。極上の商品の横に、薄汚いゴミが散らかっていては商談の邪魔になりますね。廃棄孔ダストシュートへ捨てておきなさい」


ザガンが指を鳴らした瞬間。

トマと猫人が倒れていた場所の石畳が、大きな音を立ててパカッと陥没した。


「うおあっ!?」

「ニャアアアッ!?」


二人の身体は、光の届かない王都のさらなる深淵――オークションで売れ残った「価値のない魂」や「壊れた商品」が不法投棄される、巨大な地下迷宮の最下層『廃棄場』へと向かって、真っ逆さまに落下していった。

遠ざかる視界の先。

熱狂する貴族たちの中心で、ただ静かに光を放つルミの封印水晶が、冷酷な競売人の手で高く掲げられている光景が、トマの目に焼き付いた。


* * *


ドサァッ!!


腐敗臭とカビの匂いが充満する空間。

トマと猫人の身体は、山のように積み上げられた「魔力を失った水晶の残骸」と「ボロ布のようなゴミの山」の上に、重い音を立てて落下した。


「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ……!」


トマは全身の骨が折れたかのような激痛に顔を歪めながら、必死に身を起こした。暗闇の中、微かに生えている発光ゴケの青白い光だけが、周囲の凄惨な景色を浮かび上がらせている。


「おい……猫、生きてるか……」


トマが這いずるようにして近づくと、猫人はゴミの山の上で、元の小さな黒猫の姿に戻ったまま、ピクリとも動かずに丸まっていた。


「……」

「おい! しっかりしろ! ルミが競売にかけられちまうんだぞ! 早くここから上に登る道を……!」


トマが肩を揺さぶるが、猫人は顔を上げない。

その小さな身体はガタガタと小刻みに震え、両手で自分の頭を抱え込むようにして、うわ言のように同じ言葉を繰り返していた。


「……無理だニャ……。また、俺のせいで……無力なまま、奪われたサ……。あの名前を呼ばれたら、俺は……俺の魂は、あいつの足元を這いずるしかないんだニャ……」


それは、トマが今まで聞いたことのない、酷く怯え、完全に心が折れきった『弱者の声』だった。

どんな怪異を前にしても不敵に笑っていた、あの傲慢な相棒の姿はどこにもない。


「……おい」

トマは、血に濡れた手で猫人の胸ぐらを力任せに掴んで引き起こした。


「震えてる暇があったら、立ち上がりやがれ! あいつに何を握られてるかは知らねぇが、このままルミを見捨てる気か!」


「見捨てるしかないんだサ!!」


猫人が初めて、トマに向かって絶叫した。

その金色の縦瞳孔からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。


「お前は何も分かってないニャ! 俺の『真の名前』は、俺の魂そのものの所有権だ! それをザガンに握られている限り、俺がどんなに抗おうと、あいつの命令一つで俺はお前を殺すことだってできるんだサ!! ……俺は、自分の意志すら持てない、ただの呪われた木彫りのバケモノなんだニャ……!」


絶望に泣き崩れる猫人。

トマは、その悲痛な顔をじっと見つめた後、掴んでいた胸ぐらをゆっくりと離した。


「……お前があのクソ野郎に何を奪われたのか。ここで全部話せ」


トマは痛む腹を押さえながら、ゴミの山の上にどっかりと腰を下ろした。その瞳には、絶望ではなく、ギラギラと燃えるような商人特有の『反骨の火』が灯っている。


「どうしてあんなゲス野郎に、お前の名前なんていう一番大事なもんを奪われちまったのか……。俺とお前が出会う前に、何があったのかをな」


トマの静かで、しかし決して諦めを許さない強い声に。

猫人はボロボロと涙を流しながら、数十年前の――彼がまだ誇り高き『精霊』であった頃の、屈辱にまみれた記憶を語り始めた。


* * *


――それは、数十年前のこと。


王都から遠く離れた、霊峰の頂。

神聖な空気が漂うその場所に、かつて彼は君臨していた。

純白の輝く毛並み。三つの尾。そして額に黄金の天秤の紋様を刻んだ、強大で美しい上位精霊。


世界の因果を計り、人間の罪と嘘を暴く神獣、【真理の天秤・ゼルギウス】。

それが、彼のかつての姿であり、本当の名前だった。


当時の彼は、人間を見下していた。

欲にまみれ、嘘をつき、他者を蹴落としてまで利益を求める浅ましい生き物。彼らは日々、ゼルギウスの元を訪れては「自分は正しい」「あいつが悪い」と裁きを求めてきた。ゼルギウスはその絶対的な『真理の力』で彼らの嘘を暴き、罪の重さに応じた罰を与え続けていた。


そんなある日。

一人の若い人間の男が、霊峰を登ってきた。


『初めまして、気高き因果の獣よ。私の名前はザガン。しがない商人です』


漆黒のコートを着たその若者は、ゼルギウスの神々しい姿を前にしても一切ひるむことなく、不敵な笑みを浮かべていた。


『我の裁きを受けに来たか、強欲な人間よ』

『いいえ。私はあなたに、一つの【商談ゲーム】を持ちかけに来たのです』


ザガンは一枚の羊皮紙を取り出した。それは、精霊と人間の間で交わされる、魂を縛る『絶対不可侵の契約書』だった。


『人間の欲は底なしだ。あなたはそう仰る。……ならば、賭けをしませんか? 私がこれから、この大陸で最も純粋で、一切の私欲を持たない「本物の聖者」をあなたの元へ連れてきましょう。もしそれが嘘なら、私の魂を永遠にあなたに差し出す』

『……ほう。ならば、我が負けた場合は?』

『あなたが負けた場合、あなたのその「真理の天秤ゼルギウス」という名前と力を、私に譲渡していただきたい』


ゼルギウスは鼻で笑った。

人間に私欲を持たない者など存在しない。彼はその絶対的な自信から、ザガンの差し出した契約書に、自らの魔力で署名してしまったのだ。


それが、すべての破滅の始まりだった。


数日後、ザガンが連れてきたのは、生まれたばかりの『赤ん坊』だった。

まだ言葉も持たず、欲も知らず、ただ泣くことしかできない無垢な命。


『さあ、天秤よ。計ってみなさい。この赤ん坊に、一切の私欲(罪)があるかどうかを』


ゼルギウスは愕然とした。

赤ん坊に罪などあるはずがない。因果の天秤は、完全に「白」に傾いた。


『……貴様、これは詭弁だ! 赤ん坊を聖者と呼ぶなど……!』

『詭弁? いいえ、立派な契約ですよ。私欲がない人間を連れてくる。それが見事に証明された。……さあ、契約不履行は許されませんよ。大精霊様』


ザガンが羊皮紙を掲げると、契約の呪いが発動した。

『契約』を司る精霊であるゼルギウスは、自らが結んだ絶対のルールに逆らうことができなかった。


『ガアアアアアアッ!?』


ゼルギウスの純白の毛並みがドス黒く染まり、その強大な魔力と『真理の天秤・ゼルギウス』という名前が、ザガンの手の中にある契約書へと強制的に吸い込まれていく。

誇り高き神獣は、見る影もない小さな黒猫の姿へと成り下がり、さらにザガンの手によって『絶対に売れない薄汚い木彫り』の中に封印されてしまったのだ。


『ふふっ。神獣の力と名前、確かに頂戴しました。……せいぜい路地裏の泥水の中で、人間の悪意に蹴飛ばされながら永遠に生きるがいい、名もなき獣よ』


それが、ザガンの嘲笑う声だった。

以来、彼は名前を奪われ、呪われた木彫りとして人間の間をたらい回しにされながら、数十年もの間、孤独と憎悪の中で絶望し続けていたのだ。


* * *


「……それが、俺の過去サ」


地下の廃棄場で、猫人は自嘲するように力なく笑った。


「あいつの持っている契約書が破棄されない限り、俺は一生『ザガンの所有物』だニャ。……あいつに逆らうことなんて、因果の法則そのものが許さない。……俺たちは、あいつには絶対に勝てないんだサ……」


すべてを話し終え、再び顔を伏せようとした猫人。


だが、その瞬間。


バチィィィンッ!!


薄暗いゴミの山に、甲高い平手打ちの音が響き渡った。

トマが、渾身の力で猫人の頬を張り飛ばしたのだ。


「……痛ぇだろうが」


血を流すトマは、暗闇の中で、ギラギラと燃えるような商人特有の鋭い目を細めていた。


「『契約書』に名前を奪われた? 所有権を握られてる? ……上等だ。俺は商人だぜ? 取引相手に弱みを握られてるなら……交渉で、屁理屈で、俺の命ごと大金積んででも『買い戻す』のが、俺たちのやり方だろうが」


「ト、マ……?」


トマは折れかけた足に無理やり力を込め、ふらつきながらも立ち上がった。


「奪われたもんは、必ず取り返す。……それが俺たちの『商売』だろ、相棒」


背中越しにかけられたその言葉に。

絶望に染まりきっていた猫人の瞳に、ほんの微かな、しかし決して消えない『光』が灯った。

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