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本当にあった異世界の怖い話  作者: ぽてと
商人と猫

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【File.09】魂の競売人と、名もなき猫の精算(4/8)

『さあ、恥ずかしがらずに下へ降りてきなさい。私の愛しい商品たち』


ステージの中央に立つザガンが、優雅な仕草でパチン、と指を鳴らした。

その瞬間だった。

トマたちが身を隠していたバルコニーの影から、ドス黒いヘドロのような『闇』が、意思を持った無数の巨大な触手となって噴き出したのだ。


「なっ……!? ルミ、危ねぇッ!」


トマは咄嗟にルミの小さな体を抱き寄せ、後方へと跳躍しようとした。

だが、影の触手は異常な速度でバルコニーの石造りの手すりを粉砕し、トマたちの足元を丸ごと薙ぎ払った。


「うおあっ!?」

「ニャアアアッ!?」


足場を失った三人の体は、数十メートル下の闘技場コロシアムのステージへと向かって真っ逆さまに落下していく。

「くそったれェェッ!」

トマは空中でルミを強く抱きしめ、自らの背中をクッションにするようにして大理石のステージに激突した。


ドゴォォォォンッ!!


「ガハッ……!」

凄まじい衝撃に、トマの肺から空気が弾き出され、口の中に生臭い血の味が広がる。全身の骨が軋むほどの痛みに襲われたが、腕の中のルミは無傷だった。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん、血が……!」

「へへっ……かすり傷だ。気にするな……」


トマは咳き込みながらもルミを庇うように立ち上がり、腰の短剣を抜いて構えた。その隣には、四つ足で着地した猫人が、全身の毛を逆立てて低い唸り声を上げている。


突如としてステージに降ってきた乱入者たちに、客席の仮面の貴族たちは「なんだあいつらは!?」「泥棒か!?」とざわめき立ち上がった。

だが、ザガンは片手を軽く上げて彼らを制した。


『皆様、どうかお席にお戻りください。余興の始まりですよ』


ザガンは革靴のヒールをカツン、カツンと鳴らしながら、トマたちへ向かってゆっくりと歩み寄ってきた。

その足音が一つ響くたびに、周囲の空気が重圧で押し潰されそうになる。


「……ザガン……ッ!」

猫人の喉から、血を吐くような憎悪の籠もった声が漏れた。

彼は牙を剥き出しにし、今にも飛びかからんばかりに身を屈めているが、その四肢はガタガタと無様に震え、一歩も前に踏み出すことができていなかった。魂に刻まれた根源的な恐怖が、彼の肉体の自由を奪っているのだ。


「おやおや」

ザガンは猫人を見下ろし、その美しい顔に冷酷極まりない嘲笑を浮かべた。


「誰かと思えば、数十年前に私から逃げ出した【出来損ないのペット】ではありませんか。私が『名前』と『力』を剥ぎ取り、呪いの木彫りに封じて路地裏に捨てたというのに……。まだそんな惨めな姿で、泥水をすすって生きていたのですね」


「……黙れニャ、ザガン……! お前だけは、絶対に俺がこの手で引き裂いてやるサ!」


猫人が殺意を爆発させ、痛みを堪えるように前足を踏み出した。

だが、ザガンが「ほう?」と小首を傾げただけで、猫人の周囲の重力が数十倍に跳ね上がったかのように、彼を大理石の床へと叩きつけた。


「ガァッ……!?」

「身の程を知りなさい、名もなき獣よ。今のあなたは、私がかつて恐れた『因果の天秤』を司る上位精霊などではない。ただの薄汚い野良猫だ」


見えない力で首を絞め上げられ、床に押さえつけられた猫人が、ヒューヒューと苦しげな呼吸を漏らす。


「やめてッ! 猫さんをいじめないで!」


見かねたルミが、トマの背中から飛び出し、ザガンに向かって小さな両手を突き出した。

彼女の純粋な魂から、太陽のように暖かく、眩い『白銀の光』が溢れ出す。


「――痛いの痛いの、飛んでいけッ!」


パァァァァァッ!!


ルミの放った強力な浄化の光が、猫人を縛り付けていた呪いの重圧を打ち払い、さらにザガンの足元に蠢いていた黒い影たちを「ジュウッ」と音を立てて白い灰へと変えた。


「ルミ、馬鹿! 前に出るな!」

トマが慌ててルミを背後に引き戻す。


だが、ザガンは自分の影を焼かれたというのに、怒るどころか、恍惚とした表情で自分の手を見つめていた。その漆黒の瞳が、狂気的なまでの『強欲』の色に染め上げられる。


「……素晴らしい」


ザガンは歓喜に打ち震えるように、両手を広げた。


「なんと美しい! 単なる治癒魔法ではない……魂そのものが発露する、純度百パーセントの『浄化の光』! これほどまでの極上品、私の長いオークションの歴史においてすら、一度も出品されたことがない!」


ザガンはクルリと振り返り、熱狂する客席の貴族たちに向かって高らかに声を張り上げた。


『皆様! 想像してみてください! この少女の光があれば、どれほど強力な呪いも、どれほど深い罪の副作用も、すべて無かったことにできるのです!』


客席が、水を打ったように静まり返る。

ザガンの悪魔的なプレゼンテーションが、貴族たちの最も醜い欲望を的確に突き刺したのだ。


『他人の寿命を喰らい、若さを保ちたい。他人の愛を奪い、快楽に溺れたい。……しかし、それらの【呪いの商品】には、必ず精神を蝕む副作用があった。……だが! この少女の光を浴び続ければ、皆様は一切の代償を払うことなく、永遠に罪の蜜を吸い続けることができるのです!!』


ワァァァァァァァァッ!!!!


ザガンの言葉に、仮面の貴族たちが一斉に立ち上がり、狂ったように叫び始めた。


『金貨一万枚だ! その少女を私に売れ!』

『私だ! 私の領地を一つ丸ごと差し出す!』

『その聖女を殺して水晶に封じ込めろ! 私が買い取る!!』


理性など微塵もない、欲望と狂気のるつぼ。

ルミという純粋な存在すらも、自分たちの罪を洗い流すための「便利な道具」としてしか見ていない、人間の形をしたバケモノたちの姿がそこにあった。


「……狂ってやがる。お前ら、それでも人間かよッ!!」


トマは激昂し、短剣を逆手に構えてザガンに向かって一直線に駆け出した。


「お兄ちゃん、ダメぇッ!」

「やめろトマ! お前じゃ絶対に勝てないサ!!」

ルミと猫人の制止の声が響く。


「俺は商人だ! 他人の命を売り物にしかできねぇ三流のゲス野郎に、俺の相棒と妹分を渡してたまるかァッ!!」


トマは商人特有の素早い身のこなしでザガンの懐に潜り込み、その首筋に向かって鋭い刃を振り抜いた。

確かな手応え。

だが、トマの短剣はザガンの皮膚に触れる寸前、見えない『黒い壁』に激突し、甲高い音を立てて根元から粉々に砕け散ったのだ。


「なっ……!?」


「底辺を這いずる虫が、高貴な商談に割り込むな」


ザガンが冷たく一瞥した。

次の瞬間、ザガンの足元の影が巨大なハンマーのように実体化し、トマの腹部を容赦なくカチ上げた。


「ガハァッ……!!」


内臓が破裂するかのような絶大な衝撃。

トマの身体は木の葉のように空高く吹き飛ばされ、何十メートルも離れた闘技場の石壁に激突し、血だまりの中に崩れ落ちた。


「お兄ちゃんッ!!」

ルミが悲鳴を上げてトマの元へ駆け寄ろうとするが、ザガンの指先から放たれた黒い魔力の糸が、ルミの細い手足を絡め取り、その小さな身体を宙吊りにした。


「いやっ……! 離して、痛いよぉ……!」


「大人しくしなさい、私の最高傑作マスターピース。あなたのその無垢な光は、今日この黒市場で最も高価な黄金へと変わるのです」


ザガンは懐から、ひときわ大きく、禍々しい魔力を放つ『特製の封印水晶』を取り出した。


「やめ……ルミを、放せ……ッ!」

壁際で倒れ伏したトマが、血に濡れた手を必死に伸ばすが、立ち上がることすらできない。


「ルミッ!!」

猫人が渾身の力を振り絞り、呪いの重圧を跳ね除けてザガンに飛びかかろうとした。

だが、ザガンは水晶を構えたまま、酷薄な笑みを浮かべて猫人を見下ろした。


「……まだ自分が『自由』だと錯覚しているのですか? 愚かな獣よ。あなたの命の綱が、誰に握られているのか……思い出させてあげましょう」


ザガンが、ゆっくりと口を開く。

そして、かつて彼が猫人から奪い取り、今もその魂を絶対的に支配し続けている『真の名前』を、呪文のように紡ぎ出した。


「――跪け、【真理の天秤・ゼルギウス】」


その名前が王都の地下に響き渡った瞬間。

猫人の瞳から光が消え、その身体は糸を切られた操り人形のように、トマたちの目の前で虚ろなまま床に叩きつけられた。

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