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本当にあった異世界の怖い話  作者: ぽてと
商人と猫

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【File.09】魂の競売人と、名もなき猫の精算(3/8)

王都アイギスの華やかな夜の顔すら届かない、街の最下層。

トマたちは『金色の猪亭』をこっそりと抜け出し、ルミの指し示す方向と猫人の鼻を頼りに、王都の地下を網の目のように走る巨大な下水道へと足を踏み入れていた。


「うっ……! さすがにいい匂いとは言えねぇな」

トマは鼻をつまみながら、湿って苔むした石畳を慎重に進んでいく。


「物理的な悪臭ならまだマシだニャ。……問題は、この奥から漂ってくる『呪いの瘴気』サ。足を踏み入れるごとに、空気がドロドロの泥みたいに重くなっているのが分かるかニャ?」

猫人はトマの足元を歩きながら、全身の毛を逆立てて周囲を油断なく睨みつけていた。その足取りはいつものしなやかさを欠き、一歩進むごとに目に見えない重圧と戦っているかのようだった。


「お兄ちゃん……泣き声、どんどん大きくなってる。みんな、痛いよぉ、寒いよぉって……」

ルミはトマの大きな手を両手でぎゅっと握りしめ、青ざめた顔で怯えていた。それでも彼女が立ち止まろうとしないのは、その小さな胸に宿る「助けてあげたい」という強い意志の表れだった。


「大丈夫だ、ルミ。俺とおまえがついてる。絶対に助け出してやるからな」

トマはルミの手を力強く握り返し、腰の短剣の柄に手を当てた。


迷路のような下水道を奥へ奥へと進むこと数十分。

不意に、目の前の通路が行き止まりになった。頑強なレンガの壁が立ち塞がっており、水路はその壁の下の狭い隙間へと吸い込まれている。


「おい、行き止まりだぞ。ルミ、泣き声はこっちで合ってるのか?」

「うん……この壁のむこうから、いーっぱい聞こえるよ」


トマが壁をペタペタと触って隠し扉を探していると、猫人がフンと鼻を鳴らした。


「無駄だニャ。それはただのレンガの壁じゃないサ。空間の位相を捻じ曲げて作られた、極めて高度な『隠蔽の幻影結界』だニャ。王都の衛兵団や三流の魔術師が束になっても、この壁の違和感に気づくことすらできないサ」


「マジかよ。じゃあどうやって入るんだ?」

「……俺の、知ってる魔力構造だニャ」


猫人はギリッと鋭い牙を噛み締めると、壁の前に立ち、その前足の爪をジャキッと伸ばした。

「……こんな小細工、俺の爪にかかれば……ッ!」


猫人が鋭い爪を虚空に向かって振り下ろすと、空間そのものが「ビリッ」とガラスのようにひび割れる音がした。

次の瞬間、目の前にあったはずのレンガの壁が蜃気楼のように揺らぎ、スウッと溶けて消え去ったのだ。代わりに現れたのは、地の底へと続く、松明に照らされた不気味な螺旋階段だった。


「おおっ! すげぇぞ猫! おまえ、案外役に立つじゃねぇか!」

「……フン、当然サ。だが、これだけ大規模な結界を常時張れるほどの魔力……間違いない、あの男の仕業だニャ」

猫人は額にじっとりと冷や汗を浮かべ、螺旋階段の奥を見つめて小さく身震いした。


「行くぞ。音は立てるなよ」


トマを先頭に、三人は息を殺して螺旋階段を下っていった。

階段を下りきるにつれ、ルミが言っていた「泣き声」の正体が、別の音としてトマの耳にも届き始めた。

それは、熱狂的な歓声と、拍手。そして、金貨がジャラジャラと擦れ合う、生々しい欲望の音だった。


階段を抜けた先、分厚いビロードのカーテンの隙間からそっと覗き込んだトマは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。


「……なんだよ、ここは……」


そこは、王都の地下深くとは思えないほど広大な『空洞』だった。

闘技場コロシアムのようにすり鉢状になった巨大な空間で、天井からは何百もの魔導石をあしらった豪華絢爛なシャンデリアが吊るされ、煌々と光を放っている。

客席には、高価なドレスや仕立ての良いタキシードに身を包んだ、数百人もの男女が座っていた。だが、異様なのは彼ら全員が、顔の上半分を隠す『動物や悪魔を模した仮面』を被っていることだ。

ここは王都の貴族や大商人たちが、己の身分を隠して欲のままに狂奔する、秘密の社交場だった。


「……あれが『黒市場ブラックマーケット』サ。人間の皮を被ったバケモノどもの、狂気のオークション会場だニャ」

猫人が、トマの足元から這い上がるようにして客席を見下ろした。


トマたちの視線の先、すり鉢の底にあたる中央のステージには、美しく装飾されたガラスの陳列棚が並べられていた。

そして、その棚の中に飾られているのは、宝石でも美術品でもない。

不気味な光を放つ、大小様々な『水晶』だった。


ステージの中央で、燕尾服を着た仮面の男――競売人が、金色のハンマーを打ち鳴らして声を張り上げた。


『さあさあ皆様! 夜の狂宴はまだまだこれからでございます! 続いての商品はこちら!』


競売人が、陳列棚から一つの淡く青い光を放つ水晶を取り出し、高く掲げた。


『没落した子爵が、膨れ上がった借金のカタに泣く泣く差し出した、【娘への愛の記憶】でございます! これを吸い込めば、他人の純粋で美しい愛情を疑似体験できる極上の嗜好品! 孤独な夜の慰めに、これ以上のものはありません! さあ、開始価格は金貨三十枚から!』


その言葉を聞いた瞬間、仮面を被った貴族たちが狂ったように札を上げ始めた。


『金貨五十枚!』

『私だ! 金貨八十枚出す! 最近妻が冷たくてな、無償の愛とやらに飢えているのだ!』

『金貨百枚! 私のコレクションに加えさせてもらうぞ!』


「……狂ってやがる」

トマは吐き気を堪えながら呟いた。

「愛の記憶だの、なんだの……人間の感情を、品物みたいに切り売りしてんのか!?」


「あんなのはまだ序の口サ」

猫人が、憎悪に満ちた目で陳列棚の奥を顎でしゃくった。


そこにあったのは、ひときわ大きく、そしてドス黒い泥のようにひどく濁った水晶だった。その水晶からは、ルミだけが聞き取っていた「えぐすん、えぐすん」という無数の悲鳴が、目に見えるほどの黒い瘴気となって漏れ出している。


『続いての目玉商品は、皆様お待ちかねの実用品でございます!』

競売人が大仰な身振りで、そのドス黒い水晶を指し示した。


『スラム街で重い流行り病にかかった父親が、愛する娘の薬代のために、自身の魂を削って売り払った【寿命・十年分】でございます!!』


ワァァァァァッ!!と、客席から今日一番のどよめきと熱狂が巻き起こった。


『皆様もご存知の通り、他人の寿命を自身の魂に取り込めば、あなた様の命が十年延びることは確約されております! 病に伏せている方、若さを取り戻したい方、富を長く味わい尽くしたい方! この極上の生命の結晶、開始価格は金貨三百枚から!!』


『おおおっ! 金貨四百枚!』

『五百枚だ! 私はまだまだ長生きしてこの世の快楽を味わい尽くすのだ!』

『金貨八百枚!! 誰にも渡さんぞ!!』


狂乱する客席。他人の絶望。他人の寿命。

それらが、まるでただのヴィンテージワインや絵画のように、歓声と欲望の中でオークションにかけられている。ルミが聞いていた「泣き声」の正体は、この水晶の中に生きたまま封じ込められ、すり潰された、名もなき人々の魂の悲鳴だったのだ。


「……クソ野郎どもが。命をなんだと思ってやがる」


トマの拳がギリッと握りしめられ、その手の甲に青筋が浮かんだ。

商人として、誰かが丹精込めて作った品物を適正な価格で買い取り、必要としている人に売る。それがトマの誇りだった。

だが、目の前で行われているのは商売などではない。人間の尊厳を踏みにじり、強者が弱者を食い物にするだけの、ただの反吐が出るような悪逆非道だ。


「お兄ちゃん……」

ルミが両手で耳を塞ぎ、痛みに顔を歪めていた。

「うるさいの……。水晶の中の人たち、熱い、痛い、出してって……ずっと泣き叫んでるの……!」


その時だった。

ルミの純粋な魂の波長が、会場に置かれている『絶望の水晶』たちと共鳴を起こした。

ルミの体から、彼女の意志とは無関係に、淡い『純白の光』がポワァァッと漏れ出し、カーテンの隙間から地下会場へと微かにこぼれ落ちたのだ。


その小さな光の波紋は、ドス黒く濁っていた水晶たちの瘴気を、一瞬だけ優しく撫でるように浄化した。


『……ん?』

ステージ上の競売人が、ふと異変に気づいて動きを止める。

客席の貴族たちも、「なんだ今の光は?」「水晶の輝きが一瞬増したぞ?」とざわめき始めた。


「しまった……ッ! ルミ、光を抑えるんだニャ!」

猫人が慌ててルミを隠そうとしたが、遅かった。


ゴォォォォォォ……ッ!!


突如として、巨大な地下空洞の空気が『凍りついた』。

物理的な寒さではない。本能が全力で警鐘を鳴らすような、圧倒的で絶対的な『死のプレッシャー』が、会場全体を覆い尽くしたのだ。

熱狂していた仮面の貴族たちすらも、まるで喉元に氷の刃を突きつけられたように言葉を失い、静まり返る。


『――ふふっ。皆様、本日は随分と気前が良いようで。主催者として、心より感謝申し上げますよ』


ステージの最も奥にある、漆黒の玉座。

そこから、低く、しかし恐ろしいほどよく響く、ベルベットのように滑らかで底冷えのする声が響き渡った。


姿を現したのは、漆黒のコートを羽織り、銀色の長髪を後ろで無造作に束ねた、ひどく美しい顔立ちの男だった。

その瞳は、光を一切反射しない深淵のような漆黒。彼の周囲だけ、空間の温度が数度下がり、足元の石畳が薄っすらと霜を吹いている。


「……ッ!!」


その姿を見た瞬間、トマの足元で、猫人が喉の奥からヒュー、ヒューと過呼吸のような音を立てて硬直した。

彼の全身の毛は限界まで逆立ち、その爪は自分の腕に食い込んで血を流すほどに強く握りしめられている。


「猫……! おい、しっかりしろ!」


トマの呼びかけすら、今の猫人には届いていないようだった。

魂そのものに刻み込まれた、逆らうことの許されない絶対的な恐怖。

彼がかつて『因果の獣』としての力と名前を奪われ、呪いの木彫りに封印されたという、すべての元凶。


闇の競売人――ザガン。


ステージの中央に進み出たザガンは、仮面の貴族たちを見下ろして優雅に微笑んだ後、不意にその漆黒の瞳を三日月の形に歪めた。

そして、その視線は、会場の熱狂など見向きもせず、真っ直ぐに――トマたちが身を隠している客席最後尾のバルコニーへと、正確に向けられた。


『……おや?』


ザガンの薄い唇が、残酷な笑みの形に弧を描く。


『今日は、随分と懐かしい【ペット】が迷い込んできているようですね。……それに、その隣にいる少女。ああ……なんて純粋で、極上の輝きだ。これほどまでに美しい魂の光は、私の長い商売人生でも初めてお目にかかる』


ザガンの視線が、トマの背後に隠れるルミを、まるで最高級の獲物を品定めするように舐め回した。


『あのような特級品、このザガンのコレクションに加えなくてどうするのですか』


その言葉が響いた瞬間、トマの背筋に、かつてないほどの激しい死の悪寒が駆け抜けた。

見つかった。

第1章最大の闇が、ついに光の少女と三流商人に向かって、その貪欲な牙を剥いたのである。

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