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本当にあった異世界の怖い話  作者: ぽてと
商人と猫

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【File.09】魂の競売人と、名もなき猫の精算(2/8)

王都アイギスの夜は、太陽が沈んでからが本当の始まりだと言っても過言ではなかった。

トマたちが宿を取った『金色の猪亭』は、中央広場から一本路地を入った場所にある、商人や冒険者たちで賑わう中流階級向けの立派な宿屋だった。一階の広々とした酒場兼食堂は、吹き抜けの天井まで届きそうな巨大な暖炉に赤々と火が入り、焼けた肉の脂が落ちるジュウジュウという食欲をそそる音と、エールを煽る客たちの陽気な笑い声で満ち溢れていた。


「お待たせしました! 当亭自慢の、王都近郊で獲れた猪肉の赤ワイン煮込みと、焼き立てのライ麦パンだよ!」


恰幅の良い女将が、湯気を立てる大きな陶器の皿をトマたちのテーブルにドン、と置いた。

ゴロッと大ぶりにカットされた肉が、艶やかな琥珀色のソースの中でトロトロに煮込まれており、付け合わせのジャガイモやニンジンも旨味をたっぷりと吸い込んでいる。


「うおーっ! こりゃすげぇ美味そうだ! ほらルミ、熱いからふーふーして食えよ」

「うんっ! いただきまーす!」


ルミは木製のスプーンを両手で握りしめ、大きな肉の塊にパクッと噛みついた。途端に、ほっぺたが落ちそうなほどの笑顔が顔いっぱいに広がる。


「おいしいっ! お肉が口の中ですぐにとけちゃうよ、お兄ちゃん!」

「ははは、焦るな焦るな。パンにソースをつけて食うとさらに美味いんだぜ」


トマも負けじと肉を口に放り込み、極上の味に目を細めた。旅の疲れを洗い流すような、最高に贅沢な夕食だ。

テーブルの端では、猫人が特注の小皿に乗せられた白身魚の香草焼きを、器用にフォークを使って上品に口に運んでいた。


「ふん。まあ、田舎の泥臭い飯に比べれば、少しは人間の食い物に近い味サ。だが、香草の使い方がいささか粗雑だニャ。王都の料理人もこの程度か」

「文句言いながら、さっきから尻尾がゴキゲンに揺れまくってんぞ、おまえ」

「なっ……!? ゆ、揺れてなどいないサ! これはただの生理的な筋肉の反射だニャ!」


からかうトマに、猫人がシャーッと毛を逆立てて威嚇する。そんな二人のやり取りを見て、ルミがまたケラケラと楽しそうに笑う。

絶対的な安全と、お腹を満たす温かい食事。

王都の光の恩恵を存分に味わいながら、トマはふと、隣のテーブルでエールを傾けている王都の商人たちの会話に耳を傾けた。


「……なぁ、聞いたか? また下層街スラムの方で、一家が丸ごと神隠しに遭ったらしいぞ」

「ああ、聞いた聞いた。ここ数ヶ月、貧民の失踪が相次いでるって噂だろう? 衛兵団も重い腰を上げないし、不気味な話だよな」


声のトーンを落とし、ヒソヒソと交わされる会話。トマはジョッキを口に運びながら、さりげなく聞き耳を立てた。


「神隠しなんかじゃないさ。あれは絶対に『黒市場ブラックマーケット』の連中に攫われたんだよ」

「おいおい、声がでかいぞ! あんなものは、酔っ払いの作り話か都市伝説だろうが」

「作り話なもんか。俺は見たんだ。一ヶ月前、重い肺病を患って今にも死にそうだったはずのモルガン商会の会長が、昨日、二十代の若者のような顔ツヤで大通りを歩いていたのをな。……噂じゃ、あの男、地下の競売で『他人の寿命』を買って飲み込んだって話だぜ」


他人の寿命を買う。

そのおぞましい響きに、トマは思わず眉をひそめた。

(他人の寿命を買う、ねぇ……。さすが王都だ、流れる噂の悪趣味さも桁違いだな)

行商人として様々な街を渡り歩いてきたトマにとって、裏社会の闇市場や違法なオークションの存在自体は珍しいものではない。だが、命そのものを取引するなどという話は、いくらなんでも荒唐無稽な怪談話にしか聞こえなかった。


トマが心の中で呆れながら、最後の一切れの肉を口に運ぼうとした、その時だった。


ガシャンッ。


乾いた音がして、トマがハッと顔を上げた。

向かいの席に座っていたルミの手から、木製のスプーンが滑り落ち、皿にぶつかる音だった。


「ルミ? どうした、お腹いっぱいになっちまったか?」


トマが気楽な声で尋ねるが、ルミからの返事はない。

彼女は、テーブルの上に置かれた両手をギュッと握りしめ、顔面を蒼白にしてうつむいていた。その小さな肩が、ブルブルと小刻みに震えている。


「おい、ルミ? 顔色が悪いぞ。熱でも出たか?」

トマが慌てて席を立ち、ルミの額に手を当てようとした瞬間。


「……うっうっ……っ……」


ルミの口から、微かな、だがはっきりとした「すすり泣き」の声が漏れた。

だが、それはルミ自身の声ではなかった。

まるで、何十人、何百人という名もなき人々の悲鳴が、彼女の小さな身体を通して、遠い地の底から木霊しているかのような、異質で重い響きを持っていた。


「痛いよぉ……苦しいよぉ……」


ルミが両手で自分の胸を強く掻きむしるように押さえた。その大きく見開かれた瞳からは、ポロポロと大粒の涙が溢れ出している。


「おいおい! どうしたんだルミ! どこか痛いのか!?」

トマが慌ててルミを抱き寄せる。


「違うの、お兄ちゃん……。ルミじゃないの……。街の、ずーっと、ずーっと下の方から……。真っ暗で、すっごく冷たい場所から、いっぱいの人が泣いてるの……」


「街の下から、泣き声……?」


ルミの言葉を聞いた瞬間。

今まで退屈そうに魚を突っついていた猫人の手が、ピタリと止まった。


カチャッ。

彼の手からフォークが滑り落ちる。

猫人の金色の縦瞳孔が、限界まで収縮し、ただの細い針のような一本の線に変わった。

彼の首が、ギギギ……と、まるで油の切れた機械のように不自然な動きで、王都の地下――床の下へと向けられる。


「……ッ!!」


猫人の鼻腔が、微かにピクピクと動いた。

人間であるトマには全く感知できない、しかし、上位の精霊や魔力に敏感な者だけが感じ取れる、極めて濃密で、吐き気を催すほどの『呪いの瘴気』の匂い。


それは、純粋な暴力や怒りではない。

他人の人生をゴミのように弄び、絶望をすり潰し、悲鳴を煮詰めてドロドロの泥にしたような、底なしの悪意の悪臭。


「……嘘だろ……」


猫人の口から、かすれきった声が漏れた。

トマが驚いて振り返ると、そこには、出会ってから数年、一度たりとも見たことのない相棒の姿があった。


全身の黒い毛が、バチバチと静電気を帯びたように逆立ち、元の体躯の倍近くに膨れ上がっている。

鋭い爪が無意識のうちに限界まで飛び出し、硬い樫の木のテーブルに深々と食い込み、メリメリと木材を引き裂いていた。

だが、それは戦意の表れではない。


『恐怖』だ。

生物としての根源的な、魂そのものを蹂躙されるかのような、絶対的な恐怖。

皮肉屋で、どんな怪異や悪党を前にしても不敵に笑い、常に余裕ぶっていたあの猫人が、ガチガチと牙を鳴らして震え上がっていたのだ。


「おい……どうしたんだよ、おまえ。そんな尋常じゃねぇ顔して」

トマの背筋にも、ただならぬ冷たい汗が伝う。


「……トマ」


猫人は、うわ言のようにトマの名を呼んだ。その声は、泣き出しそうなほど震えていた。


「今すぐ……荷物をまとめろニャ。馬車を出せ。今すぐだ。一秒でも早く、この街から離れるんだサ……!」


「はぁ!? 何言ってんだよ! 今は夜だぞ! 城門も閉まってるし、だいいち、ルミの様子がこんなにおかしいのに……!」


「いいから俺の言う通りにしろッ!!!!」


酒場の喧噪を一瞬で凍りつかせるほどの、悲痛な絶叫。

周囲の客たちが何事かと振り返るが、猫人はそんな周囲の目など一切気にする余裕もなかった。彼は椅子を蹴り倒し、テーブルの上に乗り上げて、トマの胸ぐらを両手で強く掴んだ。


「お前は分かってないサ……! この匂い……この、吐き気がするほどおぞましい呪いの気配……。間違いない、あいつだ……! あいつが、この王都の地下にいるんだニャ……!!」


「あいつって誰だよ! 落ち着けって!」

トマが猫人の両腕を掴んで引き剥がそうとするが、猫人の力は異常に強く、微動だにしない。


「『ザガン』だ……!」


猫人は、その名を口にすることすら恐ろしいというように、唇を震わせながら呪詛のように吐き捨てた。


「他人の魂をすり潰して黄金に変える、世界で一番の悪徳商人。……数十年前に、俺から『一番大切なもの』を奪い取り、俺をこんな惨めな呪いの木彫りに落とし込んだ……俺の、因縁の元凶サ」


その言葉に、トマは息を呑んだ。

トマと出会ったあの日、薄汚れた路地裏で「絶対に売れない呪われた黒猫の木彫り」として封印されていた彼。なぜあんな強力な力を持つ存在が、みすぼらしい木彫りに落とされていたのか。トマはあえて深くは聞いてこなかった。


その過去の元凶が、今、彼らが立つこの王都の地下にいるというのか。


「……あの男は、人間じゃない。呪いと強欲そのものだニャ。……あれは、お前らみたいな光の当たる場所を歩く人間が、決して関わっちゃいけない類の『本物の闇』なんだサ。……お願いだトマ。殺されたくなければ、逃げてくれニャ……!」


プライドの塊のような猫人が、「お願いだ」と涙目でトマに懇願した。

その姿を見て、トマの心に強烈な痛みが走る。

それほどまでに、相棒を震え上がらせる恐怖。普通なら、ここで猫人の言う通りに全速力で逃げ出すのが「賢い選択」だろう。


だが。


「……お兄ちゃん」


トマの服の裾を、小さな手がギュッと握りしめた。

見下ろすと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたルミが、青白い顔でトマを見上げていた。


「ルミ、怖い……。すっごく怖いよ。でも……」


ルミは、大きく息を吸い込み、必死に震えを抑えながら言葉を紡いだ。


「下で泣いてる人たち……ルミが『痛い痛い飛んでいけ』ってしてあげなきゃ……ずっと、ずっと暗いところで泣いたままになっちゃう……。ルミ、助けてあげたいの」


その純粋で、どこまでも他者を思いやる小さな願い。

トマは、震えるルミの頭を大きな手で優しく撫でた。そして、胸ぐらを掴んだままの猫人の手を、そっと、だが力強く握り返して引き剥がした。


「……トマ?」

猫人が、絶望的な瞳でトマを見る。


トマは、いつものようにニカッと、だが決して折れない強靭な意志を宿した瞳で、相棒に向かって不敵に笑いかけた。


「悪いな、おまえ。俺は行商人だ。『泣いてる客』が目の前にいるのに、商品も差し出さずに尻尾巻いて逃げるような真似は、俺の商売の流儀プライドに反する」


「正気かニャ!? お前らじゃ絶対に勝てないサ! ルミの光だって、あの底なしの闇の前じゃ……!」


「いいや、勝つさ。俺とおまえと、ルミの三人が揃ってればな」


トマは腰のベルトをギュッと締め直し、足元に置いていた荷物袋を背負い上げた。


「おまえがどんな因縁抱えてるかは知らねぇがな……俺の相棒をここまでガタガタ震え上がらせたクソ野郎だ。きっちり見つけ出して、法外な『迷惑料』を請求してやらねぇと気が済まねぇ。……案内しろよ。その地下の黒市場って場所に」


「……お前という奴は……本当に、底抜けのバカだニャ」


猫人はギリッと奥歯を噛み締め、深く、深くため息をついた。

だが、彼の瞳に宿っていた抗いようのない「絶対的な恐怖」は、トマの馬鹿げたほどの自信と、ルミの純粋な光に当てられ、ほんの少しだけ和らいでいた。


「……後悔しても遅いサ。地獄の底まで案内してやるニャ」


王都の華やかな喧騒の中。

光に満ちた平和な日常に背を向け、三人の旅人は、名もなき悲鳴が木霊する『底なしの闇』へと向かって、その足を踏み出したのである。

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