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本当にあった異世界の怖い話  作者: ぽてと
商人と猫

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【File.09】魂の競売人と、名もなき猫の精算(1/8)

ザァァァ……と、心地よい初夏の風が街道を吹き抜けていく。

緑豊かな並木道を抜けた先、視界が一気に開けた瞬間、御者台に座る三人の目に飛び込んできたのは、天を突くほどに巨大な白亜の城壁だった。


「わぁ……! すっごーい! お城だ! お家がいっぱい、お空まで届きそうだよ!」


馬車の御者台の横で、小さな体をめいっぱい伸ばして立ち上がった少女――ルミが、零れ落ちんばかりに目を輝かせて歓声を上げた。つぎはぎだらけだった麻の服は、サザンクロスの街を出る際にトマが新調した、仕立ての良い若草色のワンピースに変わっている。頭の上には、今朝がた道端で摘んだシロツメクサでルミ自身が編んだ、少し不格好な花冠が乗っていた。


「ははっ、すげぇだろルミ! ここがこの大陸で一番でっかくて、一番賑やかな街、王都『アイギス』だ。美味いもんも、綺麗な服も、珍しいおもちゃも、何だって揃ってるぜ」


手綱を握る行商人の青年トマは、我が事のように胸を張り、ニカッと白い歯を見せて笑った。その鼻の頭には、数日前にルミを助けた際についた傷を隠すための絆創膏が、今も誇らしげに貼り付けられている。


「えへへっ、お兄ちゃん! ルミね、旅の間ずーっと楽しみにしてたの。お母さんが昔教えてくれた、王都にある『甘くてふわふわのパン』が食べてみたい!」


「おうよ! 街に入ったら、一番大きくて、一番ハチミツがたっぷりかかったやつを奮発して買ってやるからな!」


「わーい! お兄ちゃん大好き!」


ルミはトマの腕にぎゅっと抱きつき、太陽のように無邪気な笑顔を咲かせた。

サザンクロスの街で『偽りの聖女』の魔の手からルミを救い出してから、早いもので数週間が経過していた。最初は大人を怖がり、おびえた表情を見せることも多かったルミだったが、トマの底抜けの明るさと、不器用ながらも温かい優しさに触れるうち、今では本当の兄妹のように懐いていた。


旅路は驚くほど賑やかで、そして穏やかなものに変わっていた。ルミは行く先々の小さな村で、病気で苦しむ老人や、罠にかかって足を怪我した森のキツネを見つけては、その純粋な光の魔法で無償の治癒を行っていた。

最初は「タダで魔法を使うなんて」と頭を抱えていたトマだったが、そこは転んでもただでは起きない行商人だ。「これだけ村の人が喜んでるんだ、お代の代わりに、余ってる特産品を安く譲ってくれませんか?」と、ちゃっかり物々交換の商談をまとめ、結果として馬車の荷台は常に新鮮な野菜や果物、干し肉で潤っている状態だった。


「……フン。これだから田舎者は困るニャ。少し規模の大きな壁を見ただけで、頭のネジがまとめて吹き飛んだかのような浮かれぶりだサ」


荷台の奥、日除けの布が心地よい影を作っている特等席から、シニカルな声が響いた。

トマがルミのために買い与えたはずの、ふかふかの高級クッションの上に我が物顔で丸まっていた猫人が、片目を薄く開けてこちらを睨んでいた。長い黒色気味の尻尾が、退屈そうにパタン、パタンとクッションの縁を叩いている。


「おまえな、せっかくの王都到着なんだから、少しはシャキッと歩けよ。いつもいつも荷台の奥で丸くなってばかりいやがって」


トマが苦笑しながら振り返ると、猫人は鼻でフンと笑い、器用に前足の肉球を舐め始めた。


「王都ってのはな、トマ。光が強ければ強いほど、その足元に落ちる『影』もどこよりも色濃く、深く淀む場所のサ。お前みたいな脇の甘い三流商人と、底抜けに無防備なチート小娘の組み合わせなんて、王都の悪党どもから見れば、極上のタレを塗ってネギを背負った『どうぞ喰ってください』と言わんばかりのカモだニャ。少しは危機感というものを持つサ」


「危機感ならいつも持ってるっつーの。俺だってこれでも何年も修羅場を潜り抜けてきた行商人だぜ? 悪い奴の匂いくらい、すぐに気づくさ」


「そのセリフを、詐欺師に騙されて全財産の半分を失いかけた人間に言われると、お笑い草だニャ」


「うぐっ……! それは昔の話だろ! 蒸し返すなよ!」


トマが顔を真っ赤にして抗議すると、ルミが二人の間に割って入るようにしてクスクスと笑った。


「猫さん、お顔は怖いけど、いつもルミのこと守ってくれるもんね。ルミ、知ってるよ? 昨日の夜、ルミが寝てるとき、寒くないように毛布を足でズリズリって押してくれたでしょ?」


「……ハ、ハァ!? な、何を馬鹿なことを言ってるサ! 俺はただ、自分の寝床が狭かったから、邪魔な布切れを足蹴にしてどかしただけだニャ! 勘違いするなサ、この小娘!」


猫人は一瞬にして耳をピンと立て、目をご開帳させて狼狽すると、プイッとそっぽを向いて丸くなってしまった。その様子を見て、トマもルミも、こらえきれずに大笑いしてしまった。


馬車は、厳重な検問を難なく通り抜け、ついに王都アイギスの城門をくぐった。


――その瞬間、五感を殴りつけるかのような圧倒的な熱気と活気が、三人を出迎えた。


「うわぁ……っ!」


トマの口からも、思わず感嘆の声が漏れた。

果てしなく続く石畳の大通り。その両側には、洗練された石造りの三階建て、四階建ての建物が隙間なく並び、色鮮やかな看板がひしめき合っている。大通りを行き交う人々の数も、これまでに訪れたどの都市とも比べ物にならなかった。仕立ての良いローブを纏った魔術師、大剣を背負った屈強な冒険者、色とりどりのドレスで着飾った貴族の令嬢たち。


市場のエリアに差し掛かると、そこはもう、視覚と聴覚のパラダイスだった。

「さあさあ! 獲れたての東海の魚だよ! 活きが良いよ!」

「王都名物、ハーブを練り込んだ焼きソーセージはどうだい!」

「南の国から届いたばかりの、美しい絹織物だよ!」


あちこちから威勢の良い売り声が飛び交い、スパイスの芳醇な香りと、肉が焼ける香ばしい煙が漂ってくる。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん! あそこ! 美味しそうな匂いがする!」


ルミが小さな指で指し示したのは、大通りに面した一軒の大きなパン屋だった。店先には、こんがりと黄金色に焼き上げられた、様々な形のパンが山のように積まれており、その上からとろりとした透明なハチミツや、粉砂糖が贅沢に振りかけられている。


「よし、約束通り、あの店で一番の特等品を買ってやる。お前、ちょっと馬車をここで見ててくれよ」


トマは荷台の相棒に声をかけると、馬車を道の端に止め、ルミの手を引いて店へと向かった。


「いらっしゃい! 旅の商人さんにお嬢ちゃん。何にするだい?」

エプロンをつけた恰幅の良い店主が、人懐っこい笑顔で迎えてくれる。


「この子が、ハチミツがかかった甘くてふわふわのパンを食べたいって言んだ。一番美味いやつを二つ、いや、三つくれ!」


「毎度あり! ちょうど焼き上がったばかりの『女神の白パン・特製ハチミツがけ』だよ。熱いから気をつけてな!」


トマが銅貨を支払うと、手渡されたのは、大人の拳二つ分ほどもある、驚くほど白くて柔らかいパンだった。その表面には、王都の特産である濃厚な野生花のハチミツがたっぷりと塗られており、湯気と共に甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「わぁ……あったかい……!」


ルミは両手で大切そうにパンを抱えると、大きく口を開けて、端っこの方をふわりと齧り取った。

その瞬間、少女の丸い瞳がさらに丸くなり、溢れんばかりの幸福感で顔全体がとろけるように緩んだ。


「おいしい……! お兄ちゃん、すっごく甘くて、お空の雲を食べてるみたいにふわふわだよ!」


「ははは、そうか、よかったな! ほら、お前もたくさん食べな」


トマも自らのパンを一口齧る。開拓村の硬い黒パンや、旅の途中で食べる乾燥麦のパンとはまるで違う。上質な小麦の旨味と、ハチミツの濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、噛む必要がないほどにしっとりと解けていく。これほどのクオリティのものが日常的に売られているとは、やはり王都の富の集中ぶりは凄まじい。


トマとルミは、残りの一つを大切に包んで馬車へと戻った。


「ほらよ、お前にもお土産だ。文句ばかり言ってないで、美味いもん食って機嫌直せって」


トマが包みを開けてパンを差し出すと、クッションから顔を上げた猫人は、「ふん、俺は猫舌なんだサ」と冷たく言い放った。しかし、パンから立ち上るハチミツの甘い匂いが鼻先をかすめると、そのピクピクと動く鼻を止めることができず、喉の奥から「ゴクリ」と音が響いた。


「ルミね、猫さんと一緒に食べたいな。はい、あーん」


ルミが小さくちぎったパンの白い部分を、猫人の口元へと差し出す。

猫人は一瞬、プライドを保とうとするかのように踏みとどまったが、ルミの純粋無垢な上目遣いに完全にノックアウトされ、観念したように「……仕方のない小娘だニャ」と、小さな口を開けてハチミツのついたパンをペロリと口に含んだ。


「……ッ!」


その瞬間、猫人の長い耳がピクピクと激しく動き、金色の瞳がキラリと輝いた。


「どうだ、美味いだろ?」

トマがニヤニヤしながら覗き込む。


「……ま、まあ、三流商人が買う安物にしては、及第点を与えてやってもいいサ。ハチミツの糖度が、俺の繊細な味覚にほんの少しだけ合致しただけだニャ」


そう言いながらも、猫人はルミの指先についたハチミツまで名残惜しそうに綺麗に舐めとっていた。そのツンデレな態度に、トマは再び声を上げて笑った。


その後、トマは商人としての本領を発揮した。

今回の旅の途中で、ルミの治癒魔法のお礼として各地の村々から格安(あるいは物々交換)で仕入れていた、貴重な高山植物の乾燥薬草や、辺境の職人が作った頑丈な木彫りの食器といった品々を、王都の中央市場にある大問屋へと持ち込んだのだ。


「ほう……この乾燥薬草、保存状態が極めて良いな。辺境の村でしか採れない貴重なものだ。木彫りの食器も、王都の貴族たちの間で流行っている『素朴な田舎風』の意匠にぴったりだ。よし、色をつけて買い取ろう」


大問屋の主人は、トマの持ち込んだ商品の質の高さに目を見張り、提示された査定額はトマの予想を遥かに上回るものだった。ジャラジャラと、ずっしり重い大銀貨の袋がトマの手元へと渡される。


「よっしゃ……! 大大・大成功だぜ! これだけの元手があれば、次の大陸へ渡るための船代どころか、ルミに新しいお洋服をあと五着は買ってやれるぞ!」


トマは銀貨の袋を高く掲げ、勝利のポーズをとった。


「お兄ちゃん、すごーい! お買い物、大成功だね!」


ルミも一緒になってぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ。

その様子を、荷台の上から見つめていた猫人は、小さくため息をつきながらも、その口元には、いつもの冷徹な皮肉とは違う、どこか穏やかで温かい笑みが微かに浮かんでいた。


夕暮れ時。

王都の空は、燃えるような美しい茜色から、深い藍色へと緩やかに移り変わろうとしていた。

大通りのあちこちにある魔導ランタンにポワ、ポワと温かい橙色の光が灯り始め、街は昼間の喧騒とはまた違う、ロマンチックで幻想的な夜の装いへと姿を変えていく。


中央広場では、旅の吟遊詩人たちが美しい竪琴の音色を響かせ、火の粉を操る大道芸人が集まった子供たちを楽しませていた。ルミはその光景を馬車から身を乗り出して見つめ、「きれいだね、お兄ちゃん」と何度も呟いていた。


「さあ、今夜は王都でも評判の、綺麗で安全な宿をとるからな。美味いスープを飲んで、ふかふかのベッドでぐっすり眠るぞ」


トマは馬車を優しく進めながら、心からの幸福感を噛み締めていた。

理不尽な怪異や悪党たちとの戦いが続いた過酷な旅路だったが、今、自分たちの目の前に広がっているのは、そんな血と泥の匂いとは無縁の、どこまでも平和で、光に満ちあふれた世界だった。

この頼もしい(そして少し生意気な)相棒と、天使のように可愛いルミと一緒に、ずっとこんな平和な旅を続けていけたら、どんなに素晴らしいだろうか。トマはそう願わずにはいられなかった。


しかし、トマはまだ知らなかった。

この輝かしい王都の美しさが、強固な白亜の城壁が、その地下深くに蠢く『底知れない奈落の闇』を隠すための、ただの絢爛豪華なベールに過ぎないということを。


そして、彼らがその平和な日常のピークに達したまさにその瞬間から、過去最悪の因果の歯車が、音もなく回り始めていたということを――。

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