【File.08】偽りの聖女と、小さな癒し手(5/5)
「ル、ルミちゃん!? ダメだ、あっちに行っちゃ!」
トマが慌てて腕を伸ばすが、ルミの小さな背中は、すでに馬車から離れて大通りへと歩み出していた。
彼女の歩く軌跡に沿って、石畳の隙間から純白の光を帯びた花々が次々と芽吹き、咲き誇っていく。それは、毒と絶望に染まったこの街の空気を、一瞬にして清らかなものへと塗り替えていく『本物の奇跡』だった。
「止めなくていいサ、トマ」
猫人が、トマの肩の上で静かに目を細めた。
「アレが、あの小娘の魂の重さだニャ。……人間の薄っぺらな悪意なんかじゃ、絶対に傷つけられない『本物』の輝きサ」
ルミは一切の迷いなく、暴れ狂う巨大な毒華のバケモノ――エララへと近づいていく。
『アアアッ!? ガァァァァッ!! ソノ光、ソノ光ハァァァッ!!』
バケモノと化したエララは、近づいてくるルミの純白の光に気づき、本能的な恐怖と、狂気的な嫉妬を爆発させた。
自分の嘘と強欲で作られたこの醜い体を、根底から否定するような、圧倒的に純粋な光。
『キエロォォッ! ワタシノ街カラ、ワタシノ栄光カラァァッ!!』
エララは咆哮を上げ、体から無数に生えた黒い棘付きの蔦を、ルミの小さな体に向かって一斉に突き出した。さらに、周囲の建物を溶かすほどの濃密な紫色の猛毒の霧が、津波のようにルミへと襲いかかる。
「危ないッ!!」
トマが絶叫した。
だが、ルミは逃げなかった。
彼女は迫り来る死の蔦と毒の津波に向かって、そっと両手を前にかざした。そして、いつものように、怪我をしたスラムの老人やトマに向けて言ったのと同じ、優しい声で紡いだ。
「――痛い痛い、飛んでいけ」
パァァァァァァァァァァァンッ!!
ルミの小さな両手から、太陽そのものが顕現したかのような、圧倒的な『純白の光の奔流』が放たれた。
それは熱を持たず、ただひたすらに暖かく、そして絶対的な浄化の力を持っていた。
「……っ!」
ルミに襲いかかろうとしていた無数の黒い蔦は、光に触れた瞬間にサラサラと白い灰になって崩れ落ちた。猛毒の紫色の霧も、光に照らされた端から、キラキラと輝く無害な光の粒子へと変換されていく。
『ギャアアアアアアッ!? ヤメロォッ! ワタシノ、ワタシノ力ガァァッ!!』
光の波は止まらない。
ルミの放った浄化の光は、広場全体を包み込み、そして巨大なバケモノの体そのものを完全に呑み込んだ。
バケモノの体を覆っていた『黄金の鱗』が、パラパラと音を立てて剥がれ落ち、ただの石ころに変わっていく。
信者たちから巻き上げた金貨への執着が、毒の呪いが、偽りの奇跡が、圧倒的な善意の光の前に跡形もなく焼き尽くされていく。
『ア……アガ、あ……いやだ……ワタシの、うつくしい……おカネ、が……』
バケモノは断末魔の悲鳴を上げながら、その巨大な肉体をドロドロに崩壊させ、光の中へと溶けて消えていった。
そして、光の波は街中に広がった。
麻痺毒の副作用で体を壊し、床をのたうち回っていた信者たち。彼らを包み込んだ光は、毒を完全に中和するだけでなく、壊死しかけていた手足の細胞を蘇らせ、砕けた骨を元通りに繋ぎ合わせたのだ。
「あ……ああっ……! 痛みが、消えた……」
「足が動くぞ! 本当に治ってる!」
ルミの放った大魔法は、街中にいた数千人の信者たちの体を、一瞬にして『完治』させてしまったのである。
* * *
数分後。
光が収まった大聖堂前の広場には、静寂が訪れていた。
巨大なバケモノの姿はどこにもない。
ただ、崩れ落ちた大聖堂の瓦礫の中心に、一人の『老婆』が倒れていた。
シワだらけで、髪は抜け落ち、歯もボロボロになった醜い老婆だ。
それが、毒と呪いを完全に浄化され、若さと美貌を維持する魔力すらもすべて失った、エララの成れの果てだった。
「ア……あ……」
老婆となったエララは、虚ろな目で瓦礫の周りに転がっている「ただの石ころ」をかき集め、大切そうに胸に抱きしめていた。
彼女の心は完全に壊れていた。石ころを金貨だと思い込み、ヨダレを垂らしながら下品な笑い声を上げている。もはや誰も、彼女がかつてこの街を支配した『奇跡の聖女』だとは気づかないだろう。彼女は一生、誰にも見向きされることなく、道端の石ころを金貨と信じて抱きしめながら、惨めに老いさらばえていくのだ。
それとは対照的に、広場の中心に立つルミの周りには、街中の人々が殺到していた。
「おおお! 本物の聖女様だ! 女神の生まれ変わりだ!」
「どうか私をあなたの信徒に! この全財産を捧げます!」
「大聖堂を建て直しましょう! あなた様のために!」
人々はルミの前にひざまずき、我先にと金貨の袋や宝石を差し出していた。エララに騙されていたにもかかわらず、彼らはまた『新しい崇拝の対象』を見つけ、狂乱しているのだ。
ルミは困ったように眉を下げ、押し付けられる金貨の袋を押し返していた。
「えっと……お金はいらないの。お祈りにお金をもらっちゃダメなんだよ。お花とか、木の実でいいの」
だが、熱狂する群衆にはルミの言葉は届かない。「もっと金貨を!」「私を特別扱いしてくれ!」と、大人の欲が小さな少女を押し潰そうとしていた。
その時だった。
「はいはーい! そこまでだ、お前ら! この子はお前らみたいな金満豚の持ち物じゃねぇんだよ!」
群衆をかき分けてズカズカと入り込んできたのは、行商人のトマだった。
彼はルミの体をヒョイと抱き上げると、そのまま肩に担いだ。
「お兄ちゃん!」
「ルミちゃん、ここはあんまり空気が良くねぇ! 行くぞ!」
「な、なんだ貴様は! 聖女様をどこへ連れて行く気だ!」
怒る群衆を尻目に、トマは猫人が待つ馬車の御者台へと飛び乗った。
「どこへって? そりゃあ、世界中さ!」
トマは手綱を力強く握りしめ、群衆に向かってニカッと笑った。
「こんな狭い街で、お前らのヨクボウの捌け口にされるには、この子はもったいなさすぎるからな! 俺の行商の旅に付き合ってもらうことにしたぜ!」
「えっ!? ホント!?」
ルミが目を輝かせる。
「ああ! 旅の途中で、怪我してるヤツや、お金がなくて困ってるヤツを見つけたら、お前がいっぱい治してやれ! 報酬は、花冠と干し肉と、とびきりの笑顔で十分だろ?」
「うんっ!! ルミ、お兄ちゃんと旅する!」
ルミはトマの首に抱きつき、満面の笑みで頷いた。
群衆が「待ってくれ!」「行かないでくれ!」と叫んで追いすがろうとするが、トマの馬車はそれを完全に振り切り、街の城門へと向かって猛スピードで駆け出していった。
* * *
大商業都市『サザンクロス』から遠く離れた、緑豊かな街道。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける中、行商人の馬車がカラカラと軽快な音を立てて進んでいた。
「あはははっ! お兄ちゃん、見て見て! 蝶々がいっぱい飛んでるよ!」
荷台の上では、すっかりトマに懐いたルミが、野原から摘んできた花冠を頭に乗せ、蝶を追いかけてはしゃいでいた。その顔には、スラム街にいた時の陰りは一切ない。
「こらこら、落ちるなよルミ! 商品を踏んづけないでくれよ!」
トマは御者台から振り返り、苦笑いしながらも、その瞳にはどこか妹を見るような優しい光が宿っていた。
「……フン。貧乏くじどころか、とんでもないお荷物を背負い込んだニャ、三流商人」
荷台の隅で丸くなっていた猫人が、呆れたように尻尾を揺らした。
「なんだよ、お前だってルミちゃんが乗るスペースを開けるために、自分の毛布を端っこに寄せてやってたくせに!」
「うるさいサ。俺はただ、日当たりのいい場所を譲っただけだニャ」
猫人はプイッとそっぽを向いたが、その金色に光る縦瞳孔は、楽しそうに笑うルミの姿を、どこか保護者のように穏やかに見守っていた。
「ねえねえ、猫さん! 猫さんにもお花の冠、作ってあげる!」
「いらんサ。俺の気高い毛並みにそんな草っ葉は……おい、勝手に乗せるなニャ!」
「あははは! 似合う似合う!」
馬車の中には、絶え間ない笑い声が響いている。
欲にまみれた偽りの奇跡は滅び、名もなき小さな癒し手は、本当の温かさを知る旅人たちと共に、果てしない世界へと旅立っていった。
これから彼らの行く先々で、彼女の小さな手が、どれほどの痛みを癒し、どれほどの笑顔を咲かせるのか。
それはまだ、風だけが知る物語である。




