【File.05】孤児院の強欲な院長(3/5)
夜の帳が下りた王都。
貧民街の入り口近くに停められた荷馬車の上で、行商人のトマはランタンの微かな明かりを頼りに、今日の売上を計算していた。
「……うーん、孤児院で保存食をかなり安く売っちまったからなぁ。今月の宿代、結構ギリギリだぜ」
トマがため息をつきながら銅貨を数えていると、荷台の端で香箱座りをしていた猫人が、ジッと遠くを見つめていることに気がついた。
視線の先にあるのは、月明かりの中に不気味なシルエットを浮かび上がらせている孤児院『慈愛のゆりかご亭』の建物だ。
「なんだよ、お前。昼間からずっとあの孤児院を気にしてるけど」
「……バカな女だニャ。自分の見栄と欲望のために、無自覚に『最悪の呪術儀式』を完成させてたんだからサ」
「は? 呪術儀式?」
トマが手元の銅貨を落としそうになりながら聞き返すと、猫人は黄金色の縦瞳孔を細め、長い尻尾をパタンと鳴らした。
「魔法の存在するこの世界で、呪いってのがどうやって生まれるか知ってるかニャ? 極限の絶望や怨念を、特定の標的に向けて集中的に浴びせ続けることサ。……あの院長、毎日決まった時間に、腹を空かせた三十人のガキ共に『マザーのおかげです』って感謝の祈りを捧げさせてたんだニャ」
「あ、ああ。孤児院なら、食前の普通のお祈りじゃないのか?」
「中身が違うサ。ガキ共の腹の中にあるのは、感謝じゃない。泥水みたいなスープしか飲まされない『極限の飢餓感』と、目の前で丸々と太っていく院長への『底知れない羨望と怨念』だニャ」
猫人の声が、冷たい夜風に乗って響く。
「三十人分の強烈な飢えと呪詛。それを毎日毎日、自分自身を標的にして祈らせ、自分という器に注ぎ込み続けてきた。……あの孤児院は、感謝の祈りを隠れ蓑にした、院長自身を呪い殺すための巨大な魔方陣と同じだったんだニャ」
トマはゾクッと背筋を震わせた。
「じゃあ、昼間お前が言ってた『爆発する』ってのは……」
「今日、お前が持っていった『ガキ共のための干し肉』。あれが最後の引き金になったニャ。あの女は、他人の善意すらガキ共から奪い取り、自分の胃袋に収めようとした。……その瞬間、ついに女の強欲という『器』の許容量が限界を突破して、溜まりに溜まった三十人分の飢えが、物理的な怪異として女の腹の中で弾け飛んだのサ」
猫人は夜空の月を見上げ、残酷な笑みを浮かべた。
「……今頃、あの女の腹の中では、三十人の餓鬼が『極上の晩餐』を楽しんでる頃だニャ」
* * *
ガシャンッ!! パリーンッ!!
マザー・エルマの豪華な自室は、もはや見る影もなく破壊され尽くしていた。
「あ、あぐっ……おぇぇぇっ! マズい、マズいぃぃっ!」
床に這いつくばったエルマは、手当たり次第に食料庫の瓶を叩き割り、中身を貪り食っていた。
生の小麦粉。香辛料の塊。コーヒー豆。
通常ならそのまま口にするなどあり得ないものまで、彼女の両手は狂ったような速度で口へと運び続ける。
どんな高級食材を口に入れても、味はすべて『泥と腐肉とカビ』の味しかしなかった。それでも、食べるのをやめることができない。
胃袋が、腸が、全身の細胞が「食べろ」と絶叫しているのだ。
「もう……もう嫌ぁぁっ! 許して、ごめんなさい! 私が悪かったからァァァッ!」
純白の修道服は無惨に引き裂かれ、異常なまでに丸く膨れ上がった腹が露出している。
その白く張り詰めた皮膚の下では、ボコッ、ボコボコッ! と、無数の子供たちの顔や手の形が浮かび上がり、内側から彼女の臓器を掻き毟るように暴れ回っていた。
『……マザー……もっと……もっとちょうだい……!』
『……わたしたちのぶん、ぜんぶマザーがたべちゃったんでしょう……?』
『……ずるい……ずるいよぉ……!』
頭の中に直接響く、三十人の孤児たちの声。
それは、エルマが「神への感謝」として毎日気持ちよく聞き流していた、あの祈りの声と全く同じトーンだった。ただ、そこに含まれる感情が、純度百パーセントの『殺意と飢餓』に置き換わっているだけ。
「あ、あぁぁ……っ、お腹が裂ける……! 痛い、痛いぃぃっ!!」
エルマは膨れ上がった自分の腹を両手で押さえ、血の涙を流しながら床を転げ回った。
限界を超えて膨張した胃袋は、今にも破裂しそうに悲鳴を上げている。だが、内側で渦巻く飢餓の怪異は、まだ全く満たされてなどいなかった。
ガリッ、と。
エルマの指先が、割れた床板の下に隠してあった『隠し金庫』に触れた。
中からこぼれ落ちたのは、国や貴族から寄付された、山のような金貨と宝石。
彼女が子供たちの食費を削ってまで溜め込んでいた、強欲の結晶だ。
それを見た瞬間、腹の中の子供たちの声が、一斉に歓喜のトーンに変わった。
『……あ、ごはん……ごはんだ……!』
『……マザーが、ずっとわたしたちにかくしてた、とくべつなごはんだ……!』
「え……? 違う、やめて……それは私のお金! 私の財産よ! 食べ物じゃない!!」
エルマが叫ぶが、彼女の右手は、彼女自身の意志を完全に無視して、冷たい金貨の山を鷲掴みにした。
そして、そのまま大きく開いた自分の口の中へ、無理やり金貨を押し込み始めたのだ。
「ガガッ!? ゴ、ゴパァッ……!?」
硬い金属の塊が、歯を欠けさせながら口の中を満たす。
無理やり喉の奥へと押し込まれた金貨が、食道をズタズタに引き裂きながら、悲鳴を上げる胃袋へと落ちていく。
『……おいしいね、マザー……!』
『……かたいけど、泥水よりずっとおいしいよ……!』
「ヒッ……ヒィィィィッ!! アガガガッ!!」
金貨、銀貨、鋭い装飾のついた宝石の指輪。
エルマの腕は機械のように動き続け、金庫の中にあるすべての財産を、自らの内臓を破壊しながら飲み込んでいく。
食道が裂け、口の端からドス黒い血の泡が吹き出しても、咀嚼は止まらない。
彼女が何よりも愛し、執着し、子供たちの命を削ってまで溜め込んだ富が、今、最も残酷な物理的苦痛となって彼女の肉体を内部からズタズタに引き裂いているのだ。
金貨を一枚飲み込むごとに、彼女の腹はさらに醜悪に膨張し、皮膚が限界まで引き伸ばされて赤黒く変色していく。
「た……たす……け……」
声にならない悲鳴が、血反吐と共に床にぶちまけられる。
だが、隠し金庫の中の財産がすべて彼女の胃袋に収まった時。
腹の中の『飢え』は、ついに最悪の要求を彼女の脳に突きつけた。
『……マザー……』
『……おかね、なくなっちゃったよ……』
『……まだ、おなかすいてるよぉ……』
『……つぎは、なにをたべさせてくれるの……?』
エルマの視界が、絶望で真っ暗に染まる。
部屋の中には、もう口に入れられるものは何一つ残っていない。
食べ物が尽き、財産も尽きた。
底なしの飢えを抱えた怪異が、次に『エサ』として標的にするのは。
エルマの両手が、ゆっくりと。
丸々と肥え太った、彼女自身の『太ももの肉』へと、震えながら伸びていった――。




