【File.04】呪具鑑定士の最後の査定(4/5)
ギシ、ギシ……。
薄暗い店内に、ルークの足音が重く響く。
紫色の不気味な魔法ランプの光に照らされたカウンターの上には、黒いビロードの布に包まれた『死に至る指輪』が、まるで自ら獲物を待ち構える毒蜘蛛のように鈍い銀色の光を放っていた。
「……さあ、ルーク君。君の新しい人生の門出だ」
カウンターの奥で、ギルバートが両手を広げ、神父のような芝居がかった手つきでルークを歓迎した。
そのモノクルの奥の瞳は、極度の興奮で血走り、爬虫類のように縦に細まっていた。
(そうだ、その指輪に触れろ。指を通せ! その瞬間、君の若く美しい肉体は内側から腐り落ち、骨の髄までドロドロに溶けていく。君が床をのたうち回り、血の涙を流しながら私に命乞いをする姿を、この特等席でたっぷりと鑑賞してあげよう!)
ギルバートの胸の内で、どす黒いサディズムが沸騰する。
彼にとって、無知で善良な人間が、自らの手で破滅の引き金を引く瞬間ほど甘美な光景はなかった。ましてや、ルークのような「父親思いの純粋な若者」が絶望に顔を歪める様は、どんな極上のワインよりも彼を酔わせた。
「……これを、嵌めれば。僕の、呪いは……」
ルークは焦点の定まらない虚ろな瞳のまま、震える右手をゆっくりと指輪へと伸ばした。
彼の心は、ギルバートの執拗なガズライティングによって完全に破壊されていた。父親の愛を疑い、自分自身の存在価値を否定し、ただ目の前の「権威ある鑑定士」の言葉だけを絶対の真理としてすがりつこうとしている。
指先が、冷たい銀の輪に触れた。
氷のような冷気が、ルークの指先から全身へと這い上がってくる。
それは本来、生物が本能的に拒絶すべき『死の気配』だったが、催眠状態にあるルークはそれに抗うことができなかった。
彼は、ゆっくりと、その指輪を自らの右手の人差し指に滑り込ませた。
カチリ。
指輪が根元まで収まった瞬間。
店内の紫色のランプが、チカチカと激しく明滅し、バリンッ!と音を立てて弾け飛んだ。
「……ッ!?」
ルークが息を呑む。
指輪を嵌めた彼の手首から、インクをこぼしたような『漆黒の呪詛』が、まるで無数の毒蛇のように皮膚の下を這い回り、一気に腕を駆け上がってきたのだ。
「あ、が……っ!?」
血管がどす黒く変色し、肉が内側から煮え繰り返るような凄まじい激痛がルークを襲う。
呪詛は、彼の命の源である『心臓』を喰い破るため、一直線に胸へと向かって殺到した。
「はーっはっはっはっは!! 素晴らしい! 素晴らしいぞルーク君!!」
その光景を見て、ギルバートは狂喜の歓声を上げた。
「それが君の新しい人生だよ! ああ、父親の呪いからは解放されたね! なぜなら君自身が、これから数分のうちに、原型を留めない腐肉の泥と化して死ぬのだから!!」
「ギル……バート、さん……? な、ぜ……」
「まだ分からないのかい? 君のような無価値なゴミ屑が、私のような天才と同じ空気を吸っていること自体が不愉快なのだよ! 君の命の価値は、その指輪の錆にも満たない! さあ、もっと泣け! 叫べ! 私の足元で、自らの無知を呪いながら醜く溶けていくがいい!!」
ギルバートの醜悪な本性が、ついにその全貌を現した。
ルークは膝から崩れ落ちた。黒い呪詛が首元まで達し、彼の心臓を完全に停止させようと、その冷たい牙を突き立てた——その、瞬間だった。
——カァァァァァァァァッ!!!
突然、ルークの胸元から、真昼の太陽すら霞むほどの『圧倒的な純白の光』が爆発的に溢れ出した。
「な、なんだ!?」
ギルバートは思わず腕で顔を覆った。
光の源は、ルークの胸のポケット。行商人のトマが、泥水を手伝ってくれたお礼として「銅貨一枚」で強引に押し付けた、あの『小さな銅の手鏡』だった。
くすんで傷だらけだったはずの銅の鏡面が、今や神の威光を宿したかのように眩く輝き、ルークの心臓を覆い尽くそうとしていた漆黒の呪詛を、真正面から受け止めていた。
ギギギギギギギギギッ!!!
呪いと光が激突し、ガラスを爪で引っ掻くような数万倍の不快な音が店内に響き渡る。
『死に至る指輪』の呪いは、持ち主を殺すまで決して止まらない強力なものだ。だが、トマが押し付けた手鏡は、ただの魔除けではなかった。
どんな理不尽な悪意も、どんな強力な呪詛も、一切の減衰なく術者へと跳ね返す、失われた古代の特級魔導具——『完全反射のアイギス』だったのだ。
ピキッ……、パァァァァンッ!!!
甲高い破裂音と共に、ルークの指に嵌っていた銀の指輪が、粉々に砕け散った。
それと同時に、ルークの体を侵食していた漆黒の呪詛が、行き場を失った濁流のように反転し、放物線を描いて『呪いの持ち主』であるギルバートへと一直線に襲いかかった。
「……は?」
ギルバートの間の抜けた声が漏れる。
次の瞬間、凄まじい勢いで逆流してきた『死の呪詛』が、カウンター越しのギルバートの胸ぐらに、文字通り物理的な衝撃を伴って激突した。
「ガハッ……!?」
ギルバートの体が吹き飛び、背後の棚に激しく叩きつけられる。
そして、彼がルークに味わわせようとしていた地獄が、寸分の狂いもなく、彼自身の肉体で再現され始めた。
「あ、アァ? ァアアァァァァァァァッ!!?」
ギルバートの顔面から血の気が引き、代わりに皮膚の下を黒い毒蛇のような呪詛が異常なスピードで這い回り始めた。
「い、痛い! なんだこれは! 痛い、熱いィィィッ!!」
彼が自慢にしていた、なでつけられた髪がごっそりと抜け落ちる。高級なベルベットのローブの下で、彼の生きた肉体がジュウジュウと音を立てて『腐食』し、ドロドロの黄色い膿と化して床に崩れ落ち始めた。
「た、助け……! 解呪! 解呪の魔法を……!!」
彼はパニックになりながら、溶けゆく左手で必死に魔法陣を描こうとした。
だが、その時。
呪いの逆流によってギルバートが叩きつけられた背後の『陳列棚』。そこから、ピキ、ピキピキッ……という、硬いものがひび割れるような不吉な音が鳴り始めた。
「……え?」
ギルバートが振り返った先。
頑丈な鉄格子で守られ、厳重な封印術式が施されていたはずの『呪具の保管棚』。
そこに並べられていた数十個もの呪われたアイテムたち(血塗られた短剣、首のない石像、黒ずんだ首飾りなど)を封じ込めていた結界が、ルークの手鏡が放った強烈な『浄化の光』と、逆流した『呪詛の衝撃波』によって、完全に破壊されていたのだ。
『……ギル……バー……トォォォ……』
ドス黒い、怨念の塊のような重低音が、店内のどこからともなく響き渡った。
猫人が「呪いのゲロの悪臭」と評した、あの禍々しい気配。
それは、ギルバートが長年かけて言葉巧みに呪具を押し付け、破滅させてきた無数の冒険者たちの『無念の魂』だった。
「ひっ……!?」
ギルバートの背筋が、これまでに感じたことのない絶対的な恐怖で凍りついた。
棚の中でガタガタと震えていた呪具たちから、黒い泥のような靄が大量に噴き出し、店内の天井を覆い尽くすほどの巨大な『顔のない怪物』へと変貌を遂げていく。
『……おれの……けんを……かえせ……』
『……あつい……とける……からだがとけるぅぅぅ……』
『……だましたな……おれたちの、いのちを……!!』
何十人、いや、何百人もの男女の怨嗟の声が混ざり合い、鼓膜を突き破るような絶叫となってギルバートに降り注ぐ。
彼らは気づいたのだ。
自分たちを騙し、嘲笑いながら殺した憎き標的が、今、結界の守りを失い、さらに『死の指輪』の呪いで弱り切った状態で目の前に這いつくばっていることに。
「く、来るな! 来るなぁッ! 私はギルバートだ! 天才鑑定士だぞ! お前たちのようなゴミ屑が私に触れるなど、許されるはずが……」
ドスッ!!!
ギルバートの言葉は、彼の右肩に深々と突き刺さった『血塗られた短剣(呪具)』によって強制的に遮られた。
棚から飛び出した短剣が、まるで自らの意志を持っているかのように宙を舞い、彼を床に縫い付けたのだ。
「ギャアアアアァァァァァァッ!!」
それを合図に、堰を切ったように無数の呪具がギルバートへと群がり始めた。
『黒ずんだ首飾り』が蛇のように伸びて彼の首に巻き付き、ギリギリと骨が鳴るほど締め上げる。
『首のない石像』が重い足音を立てて歩み寄り、その石の腕でギルバートの両足を無造作に踏み砕く。
そして、天井を覆っていた怨念の泥が、滝のようにギルバートの全身へと降り注いだ。
「ア、アガァァッ! 痛い、溶ける、私が溶けるゥゥッ!!」
泥に触れた部分から、ギルバートの肉体が凄まじい速度で消化されていく。
彼が他人に味わわせてきた絶望、屈辱、そして死の苦痛。そのすべてが、数百倍に凝縮された『極上の地獄』となって、彼自身の肉体を貪り喰らっているのだ。
「ゆるして! 許してくれ! 金ならある! 白金貨が金庫に……あ、あああああぁぁぁっ!!」
『……銀貨一枚。……それが、きみの命の……価値だ……』
泥の中から浮かび上がった、かつて彼が騙した冒険者の幻影が、ギルバートが放った言葉をそっくりそのまま返しながら、彼の顔面を掴んだ。
ギルバートが誇りにしていた「神の目」であるモノクルが、高熱の泥によって溶け、彼自身の眼球と皮膚にドロドロに癒着していく。
「目、目がァァァァッ!! 私の神の目がァァァッ!!」
「いやだ、死にたくない! ルーク! ルーク君、助けてくれ! 私は君の恩人だろう!? あの時計の呪いから君を……アァァァァァァッ!!」
醜く、見苦しく、どこまでも利己的な命乞い。
だが、その声はすでに誰の心にも届かなかった。
カウンターの外側。
床に座り込んでいたルークは、自分の胸元で静かに光を放ち続ける『銅の手鏡』を両手で強く握りしめながら、目の前で繰り広げられる惨劇をただ呆然と見つめていた。
手鏡の光が結界となり、荒れ狂う怨念の嵐はルークには一切触れようとしない。
むしろ怨念たちは、ルークを避けるように迂回し、すべての憎悪をギルバートただ一人へと集中させていた。
『……お前が、くだした、査定だ……』
『……しっかり……受け取れ……』
「やめ……やめ……」
無数の呪具と怨念の泥に完全に覆い尽くされたギルバートの姿は、もはや肉塊の山にしか見えなかった。
彼が最後に発した声は、言葉ではなく、肺の奥から絞り出された「ゴボッ」という汚泥の泡の弾ける音だった。
ズズズズズズ……ッ。
そして、すべての怨念がギルバートの肉体を喰らい尽くし、彼という存在の最後のひと欠片までを泥の中に引きずり込んだ瞬間。
店内に吹き荒れていた狂乱の嵐は、嘘のようにピタリと止んだ。
「…………え?」
静寂が戻った店内。
カウンターの奥にあったはずの豪華な椅子も、高価な絨毯も、そしてギルバートという男の肉体も、すべてが跡形もなく消え去っていた。
床にはただ、人間の形をした『真っ黒な染み』だけが、コールタールのようにねっとりとこびりついているだけだった。
彼がコレクションしていた呪具たちもまた、役目を終えたかのようにボロボロの灰となって崩れ落ちていく。
ルークは、震える足でゆっくりと立ち上がった。
信じられない光景だった。
つい数分前まで、自分を言葉の刃で切り刻み、殺そうとしていた絶対的な権力者が、自らの悪意に飲み込まれて完全に消滅したのだ。
ふと、カウンターの上に目を向ける。
そこには、黒いビロードの布だけが残り、ルークから奪われた『寿命喰いの懐中時計』が、無傷のまま、チクタク、チクタクと力強い音を立てて時を刻んでいた。
ルークは時計に歩み寄り、そっと手に取った。
ギルバートは「魔力が暴走しかけている悲鳴だ」と言った。
だが、今のルークには、それが全く違うものに聞こえた。
それは、どんな絶望の中でも息子の未来を案じ、見守り続けている、父親の力強い『心臓の鼓動』そのものだった。
「……父さん」
ルークの目から、せき止めていた大粒の涙が溢れ出した。
彼は時計を額に押し当て、声を上げて泣いた。
自分は間違っていなかった。父の愛は本物だった。そして、自分を救ってくれたのは……。
ルークは、もう片方の手で握りしめている『銅の手鏡』を見つめた。
泥だらけの荷物を手伝っただけで、あんなに人の良さそうな笑顔でこれを押し付けてくれた、あの行商人の青年と、彼を見守っていた猫人の顔が浮かぶ。
「ありがとう……。トマさん」
誰もいない、すべてが終わった薄暗い店内で。
ルークの感謝の言葉だけが、静かに、そして温かく響き渡っていた——。




