【File.03】盗まれた魔導書の呪い(5/5)
建国記念祭の狂乱から一夜明けた、王都。
昨日まで街中を彩っていた鮮やかな祝祭の旗はすべて取り払われ、広場へと続く大通りには、どこか落ち着かない、刺すような静寂が漂っていた。
広場の中央、あの忌まわしい漆黒の炎がすべてを焼き尽くした演壇の跡地には、今もなお、魔法によるものではない『焦げついた絶望の匂い』が微かに残っている。
「……はぁぁ。結局、あの後どうなったんだよ。伯爵家は取り潰し、親族は全員追放。あんなに威張ってた魔術師たちが、今はネズミみたいに震えて隠れてるってさ」
王都の城門へと続く裏道。
一台の荷馬車が、ガタゴトと音を立ててゆっくりと進んでいた。
御者台で手綱を握る行商人の青年は、何度も後ろを振り返り、遠ざかっていく王宮の尖塔を不安そうに見つめている。
「なぁ、お前。あの夜……ヴァレリウスが消える直前、確かに聞こえたよな? あの化け物の右腕から響いた、弟子の小僧の……テオの声が」
行商人は、思い出すだけでも鳥肌が立つのか、自分の腕をごしごしと擦った。
あの絶叫。あの死臭。そして、何よりも耳に残って離れない、あの不気味なほど穏やかな声。
「『ごちそうさま』……。あいつ、確かにそう言ったんだ。自分の師匠を、あんな無惨に焼き殺しておきながら……。あんなの、ただの復讐にしては気味が悪すぎるだろ」
荷台の上で、干し肉を噛みちぎっていた猫人は、金色に光る縦瞳孔の目を細め、ふんと鼻を鳴らした。
彼は建国記念祭の夜も、広場の片隅でただ静かに、すべてが瓦解していく様を眺めていたのだ。
「……復讐、なんて言葉は、生きてる人間が使う生ぬるい言葉だニャ」
猫人は食べかけの肉を横に置くと、長い尻尾をゆらりと揺らし、広場の方向を冷ややかに見据えた。
「いいか。ヴァレリウスという男は、テオという小僧からすべてを奪ったサ。知恵、名声、将来、そして命。……アイツは、自分より優れた才能を持つ平民を殺して踏み台にすることで、自分という存在を『天才』として肥え太らせてきたのサ」
「それは……そうだけどよ。だからって、あんな食い殺すみたいな真似……」
「逆だニャ」
猫人は、鋭い爪で行商人の鼻先を軽く突いた。
「ヴァレリウスがテオを食べていたんじゃない。……ヴァレリウスが名声を得れば得るほど、ヴァレリウス自身の『存在』が、テオを育てるための『苗床』に作り変えられていったのサ」
猫人の語る言葉は、冬の夜風のように冷たく、行商人の背筋を凍らせた。
「あの魔導書は、テオという天才が、自分を虐げ、殺そうとする師匠の本質を見抜いて作り上げた『罠』だったニャ。……ヴァレリウスが名声を欲し、他人の成果を自分のものだと偽るたびに、呪いはアイツの魂をテオの『エサ』として差し出させたサ。……昨日、王都中の民衆があの魔法を見て、ヴァレリウスを崇めたあの瞬間……ヴァレリウスという人間の『社会的価値』は最高潮に達した。つまり、エサとして一番美味しく熟したわけだニャ」
行商人は、生唾を飲み込んだ。
つまり、あの建国記念祭の演壇は、ヴァレリウスにとっての栄光の舞台ではなく、テオの怨念にとっての『食卓』だったということか。
「……テオは、自分が受けたハラスメントと殺意を、そのまま食欲に変換したのサ。……自分を殺して奪った男が、自分の知恵を使って手に入れた最高の地位、最高の名誉、最高の称賛。……それをすべて手中に収めた瞬間のヴァレリウスを、魂ごと丸呑みにするために、アイツは谷底でじっと待っていたんだニャ」
猫人は、空を仰いでクスクスと笑った。
「『ごちそうさま』……。それは、自分をここまで立派なエサに育て上げてくれた、師匠への心からの感謝の言葉だったのサ。……ヴァレリウスが積み上げた嘘が大きければ大きいほど、テオにとっては最高の晩餐になった。……アイツは今ごろ、あの日記のページの中で、ヴァレリウスの絶望と汚名をじっくりと味わいながら、永遠に満腹感を噛み締めているはずだニャ」
「うぐぅ……。もういい、それ以上聞きたくねぇ。……結局、あの魔導書はどうなったんだ? 騎士団が回収したって聞いたけど……」
「さあニャ。あんな呪いの塊、普通の人間が持っていれば、また同じことが繰り返されるだけサ。……欲望がある限り、テオの『食事』は終わらない。……次は誰が、あの本を開いて『天才』を自称するのか……楽しみだニャ」
猫人は再び干し肉を口に運ぶと、興味を失ったように丸くなった。
馬車は王都の城門を抜け、深い霧が立ち込める街道へと消えていった。
後に残されたのは、天才と呼ばれた男の、無惨な最期の噂だけ。
皮肉なことに、ヴァレリウスが命よりも欲しがった「自分の名前」は、歴史から抹消されるどころか、「史上最悪の詐欺師」として、永遠に人々の記憶に刻まれることとなった。
テオが、彼のすべてを「ごちそうさま」してしまったからだ。
* * *
その日の夕刻。
王立魔導図書館の、厳重に封印された地下倉庫。
新しく運び込まれた『ヴァレリウスの魔導書』が、暗闇の中で静かに置かれていた。
風もないのに、魔導書のページが、パラリ……と一枚だけ捲れた。
そこには、ヴァレリウスの最期の瞬間を写し取ったような、苦悶に満ちた男の顔のシミが浮かび上がっている。
そして、そのシミのすぐ横に、新たな文字が、テオの整った筆跡で刻まれた。
『——次の講義、始めましょうか。せんせい』
地下倉庫に、誰かのすすり泣くような声が響いたが、それに気づく者は誰もいなかった。




