【File.03】盗まれた魔導書の呪い(3/5)
「……っ、ぐ……ぁ、あああああぁぁぁぁっ!!」
王宮からの使者が帰り、重厚なオーク材の扉に幾重にも鍵をかけた瞬間。
ヴァレリウスは研究室の床に崩れ落ち、獣のようなうめき声を上げた。
王の勅命。建国記念祭での、国中の民と王族の前での極大魔法の披露。それは魔術師としてこの上ない栄誉であり、彼が喉から手が出るほど欲していた絶対的な権力への切符だった。
だが今、その切符は、彼を処刑台へと引きずり上げる死神の招待状へと変わっていた。
「なぜだ……! なぜ、こんな時に……っ!」
ヴァレリウスは脂汗にまみれた顔を歪め、震える左手で、右腕を覆っていた純白の絹の手袋と、その下の上質なシルクの袖を強引に引き裂いた。
ビリッという布の裂ける音と共に、むせ返るような死臭が、密室となった研究室の中に爆発的に広がった。
「ヒッ……、アァ……ッ」
自らの右腕を直視し、ヴァレリウスの喉からヒューッと空気が漏れた。
数日前は手首までだった変色と腐敗は、今や肘を完全に越え、二の腕の半ばにまで達していたのだ。
生きている人間の肌の面影はどこにもない。そこにあるのは、完全に生命活動を停止し、腐敗の過程を急速に辿っている『他人の死体』だった。
皮膚はどす黒い赤紫色と不気味な緑色に斑変色し、所々から黄色い膿と、ドロドロに溶けた脂肪分が絶え間なく滲み出している。指先は死後硬直のように鳥の鉤爪の形にひしゃげて固まり、微かにピクピクと痙攣を引き起こしていた。
だが、彼を最も絶望させたのは、その腐敗の進行ではない。
二の腕のあたり、生きている彼自身の白い肌と、腐り果てた死体の肉との『境界線』だった。
そこでは、彼自身の生きた血管が、どす黒い死体の肉へと無理やり接続されていた。ドクン、ドクンと彼の心臓が脈打つたびに、新鮮な赤い血が死体の部位へと送り込まれる。しかし、その血は境界線を越えた瞬間に黒く濁り、死体を養うための汚泥へと変換されていくのだ。
自分の命を削り、自分が殺した弟子の死体を育てている。
その悍ましい事実が、ヴァレリウスの精神をゴリゴリと削り取っていった。
「治さねば……。明日までに、この腐りきった呪いを解かねば……!」
彼は半狂乱になりながら、研究室の壁際にある巨大な薬品棚へと這いずっていった。
そこには、王族すら滅多に目にすることのできない、国中から金に糸目をつけずに集めた最高級の霊薬や魔法薬が並んでいる。
ヴァレリウスはガラス瓶を次々と叩き割り、中身を自らの右腕にぶち撒けた。
「再生の霊薬! エルフの秘薬! なぜ効かん!!」
高価なポーションが腐った肉に触れた瞬間、ジュウッという音を立てて蒸発していく。
治癒魔法の薬液は、ヴァレリウスの『生きた肉体』には作用するが、すでに死んでいる『テオの肉体』には全く反応しない。いや、むしろ強力な生命力を強制的に注ぎ込まれたことで、死肉の細胞が異常な反応を起こし、腐敗をさらに加速させてしまっていた。
「痛い……痛い痛い痛い痛い痛いィィッ!!」
右腕の中から、数万匹のウジ虫に神経を噛み千切られるような激痛が走る。
それに加えて、彼をもう一つの『幻影の痛み』が襲った。
ガキッ、メチャッ……!
「……っ!? あ、足が……! 腕の骨が……!」
ヴァレリウスは床を転げ回りながら、存在しない痛みに悲鳴を上げた。
右腕に走る激痛に混じって、全く別の感覚が彼の脳髄を直接殴りつけてきたのだ。
それは、冷たい風を切って落下していく浮遊感。
そして、鋭い岩肌に全身を叩きつけられ、全身の骨が粉々に砕け散り、内臓が破裂する、絶望的な激痛。
彼が突き落とした弟子・テオが、谷底に激突して死んだ瞬間の『死の苦痛』が、呪いを通じてヴァレリウスの脳に直接フラッシュバックしているのだ。
「や、やめろ……俺は、私は、ヴァレリウスだ……! 貴様のような下賤な平民ではない!!」
痛みにのたうち回りながら、彼は自らのプライドにしがみつくように叫んだ。
なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
テオは確かに天才だった。彼が構築する魔法陣の理論は、ヴァレリウスが何十年かけても辿り着けないほど美しく、完璧だった。
だからこそ、殺したのだ。
歴史ある名門貴族の嫡男として生まれ、幼い頃から『天才』と持てはやされてきたヴァレリウスにとって、泥水をすするように生きてきた平民の小僧が自分を凌駕することなど、世界の理に反する許しがたい大罪だった。
テオの知識は、高貴な血を持つ自分が世に発表してこそ価値がある。あの凡庸な顔の男が偉大な魔法の創始者として歴史に名を残すなど、美しくない。
だから、崖から突き落とした。あれは殺人ではない。世界を正しく保つための『剪定』だったはずだ。
「私の……私のものだ。あの魔導書も、名声も、すべて私にふさわしいものだ……!」
荒い息を吐きながら、ヴァレリウスは床を這い、マホガニーの机にすがりついた。
机の上には、すべての元凶であり、そしてすべての栄光の源である『魔導書』が、月明かりを浴びて静かに横たわっている。
パラリ、パラリ……。
風もないのに、分厚い羊皮紙のページが勝手に捲れていく。
そして、明日彼が王の御前で披露しなければならない極大魔法――【神聖炎陣】のページでピタリと止まった。
ヴァレリウスは、充血した目でその複雑怪奇な術式を睨みつけた。
テオの几帳面な字でびっしりと書き込まれた理論。しかし、そのページの端には、生前、テオが震える手で書き足した『警告文』が記されていた。
『先生、この術式は絶対に完全な状態で起動してはなりません。この魔法は、周囲の魔力ではなく、術者自身の魂の形を触媒として燃やします。もし術者の精神に少しでも濁りがあれば、炎はコントロールを失い、術者の罪そのものを焼き尽くすまで消えることはありません』
「……ふんっ、小癪な小手先の脅しを。魔力制御なら私の右に出る者はいない」
ヴァレリウスは強がって吐き捨てた。
だが、その時だった。
『――せんせい……』
誰もいないはずの研究室に、湿った、ひどく冷たい声が響いた。
「誰だ! どこにいる!!」
ヴァレリウスは血走った目で周囲を見回した。
部屋の隅、巨大な本棚の影。そこから、ズルリ、ズルリと、這いずるような音が聞こえてくる。
『……せんせい。ぼくの……ぼくの頭のなかを……かえしてください……』
暗闇から姿を現したのは、全身の骨が砕け、肉が泥のように崩れ落ちたテオの亡霊だった。
首が不自然な方向に折れ曲がり、片方の眼球が飛び出したその顔が、ヴァレリウスを真っ直ぐに見つめている。
亡霊がズルリと這い進むたびに、床にはベットリと黒い血の跡が残った。
「ひぃぃぃっ! 来るな! 私に近づくなッ!!」
ヴァレリウスは狂乱し、左手から強力な火炎魔法を放った。
灼熱の炎が亡霊を包み込む。だが、炎が晴れた後には、焦げ跡一つ残っていなかった。
それは物理的な存在ではない。ヴァレリウスの罪悪感と呪いが融合して生み出した、彼の脳内にだけ存在する絶対的な『死の幻影』だった。
『……あした……たのしみですね……せんせい……』
『……みんなの前で……ぼくたちの魔法を……みせましょうね……』
亡霊は這いずりながら、ゆっくりと、確実にヴァレリウスへと近づいてくる。
その手には、彼がテオを突き落とした時に掴み取ろうとして千切れた、ヴァレリウスの『上着の切れ端』が握られていた。
「やめろ……狂う……私が、天才である私が狂ってたまるかァァァッ!!」
ヴァレリウスは耳を塞ぎ、目を閉じ、絶叫しながら自らの頭を床に何度も打ち付けた。
逃げ出したい。今すぐこの屋敷から、王都から逃げ出したい。
だが、できない。
今更逃げ出せば、王命に背いた大罪人として全国に指名手配される。これまでに彼を妬んでいた貴族たちは一斉に牙を剥き、彼のこれまでの業績もすべて疑われ、ヴァレリウス家は取り潰しになるだろう。
泥水をすするような平民の生活。誰からも見下される、惨めな敗北者。
そんな未来を想像しただけで、彼は狂い死にそうになった。
彼にとって、名声を失うことは、死ぬことよりも恐ろしい地獄だった。
「……やるしかない。やるしかないのだ……。明日、あの魔法を完璧に成功させれば……王室専属の魔術師に任命される……。そうすれば、国中の聖遺物や古代の呪い解きの秘宝を、自由に使える権限が手に入る……!」
ヴァレリウスは、血走った目で己の右腕を見た。
この腐った腕さえ隠し通せば。明日という一日さえ、完璧な天才を演じ切れば、彼は救われるのだ。
そう自分に言い聞かせることでしか、崩壊しそうな精神を保つことはできなかった。
「隠す……徹底的に、完璧に隠し通してやる……!」
夜が更けていく中、ヴァレリウスの異様な『作業』が始まった。
彼はまず、腐敗の進行を一時的に遅らせるための強力な防腐剤(ホルマリンに似た劇薬)を、自らの右腕に直接注射した。
薬液が死肉に注入されるたび、腐敗した神経が異常な痙攣を起こし、絶叫しそうになるのを必死で堪える。
次に、滲み出る黄色い膿と体液を吸収するため、分厚い医療用のガーゼを何重にも、手首から肩にかけて隙間なく巻き付けた。
さらにその上から、特殊な錬金術でなめした、魔力を遮断する漆黒の革ベルトを螺旋状にキツく縛り上げ、腕全体の形を無理やり『人間の腕の太さ』にまで圧縮する。
ギチギチと、腐った肉と砕けた骨が擦れ合う音が響いたが、彼は意に介さなかった。
「臭いだ……。この忌まわしい臭いだけは、どうにかしなければ……」
彼は、最高級の乳香と没薬、そして麝香を大量に焚き、その濃厚な煙をガーゼに徹底的に染み込ませた。さらに、薔薇の香水を小瓶ごと頭から被るように浴びる。
むせ返るような重厚で甘ったるい香料の匂いが、死臭を無理やり上書きしていく。それはかえって、葬儀場に安置された貴族の遺体のような、異様で不吉な匂いを生み出していたが、鼻が麻痺しきっているヴァレリウスにはもはや分からなかった。
最後に、特注の黄金の刺繍が施された、袖の長い最高級の儀礼用ローブを羽織る。
手には、ガーゼを隠すための漆黒の革手袋。
姿見の前に立ったヴァレリウスは、荒い息を吐きながら鏡の中の自分を見つめた。
顔色は死人のように青白く、目の下にはどす黒いクマができている。しかし、厚く塗られた白粉と、高価な衣装のおかげで、一見すると『大舞台を前にした、神秘的で近寄りがたい天才魔術師』の威厳を保っているように見えなくもなかった。
「……完璧だ。私は、美しい」
彼は引き攣った顔で、鏡に向かって笑いかけた。
右腕はもはや鉛のように重く、完全に感覚を失っていた。動かすことすらままならない。
だが、魔法陣の構築は左手と杖だけで十分だ。
コツン、コツンと杖を突きながら、彼は研究室の扉へと歩み寄った。
その背後で、机の上に置かれた魔導書が、再びひとりでにパラリと捲れた。
そこには、今まで何も書かれていなかったはずの空白のページに、赤い血のようなインクで、たった一言だけ、新たな文字が浮かび上がっていた。
『——ごちそうさまです、せんせい』
ヴァレリウスはそれに気づくことなく、鍵を開け、自らを待つ破滅の舞台へと重い足を踏み出した。
窓の外では、彼の輝かしい栄光と、絶望の最期を告げる、建国記念祭の祝砲が夜明けの空に鳴り響いていた。




