【File.03】盗まれた魔導書の呪い(2/5)
「素晴らしい! まさに奇跡の炎だ!」
王宮の庭園で、高位貴族たちの感嘆の声が上がる。
数日後、ヴァレリウスは王族を招いた晩餐会の余興として、テオから奪った魔導書に記されていた『極大炎陣』を披露していた。
「ははっ、お気に召して光栄です。私にかかれば、この程度の魔法、造作もありません」
優雅に微笑みながら、ヴァレリウスは右手に嵌めた純白の絹の手袋をギュッと握りしめた。
手袋の下で、彼の右手は氷のように冷たく、ズキズキと不気味な鈍痛を放っていた。
(……痛い。それに、なんだこのひどい悪臭は)
貴族たちの前では余裕の笑みを取り繕っているが、彼の鼻には、数日前のあの忌まわしい猫人が言っていた通りの『肉が腐る匂い』が、べったりとこびりついて離れないのだ。
* * *
屋敷に戻ったヴァレリウスは、自室の鍵を二重にかけ、震える左手で右手の絹の手袋を引き剥がした。
「……ひ、ヒィッ……!」
現れた自らの右腕を見て、彼は息を呑んだ。
数日前はほんの指先の黒ずみだったはずの変色は、今や手首のあたりまで完全に広がっていた。
生きている人間の肌ではない。血の気を完全に失い、どす黒く変色し、所々から黄色い膿と体液が滲み出ている『死後数週間が経過した死体』の腕そのものだった。
「なんだこれは……呪いか!? あのテオのノートに、呪いのトラップでも仕掛けられていたというのか!」
ヴァレリウスは慌てて最高位の治癒魔法を右腕にかける。
淡い光が腕を包み込むが、腐敗した肉体は一切元に戻らない。傷や病気ではないのだ。これは明確に、彼の肉体が『別のもの』へと変質している現象だった。
「クソッ、治癒魔法が効かない!? ……待て。なんだ、この傷跡は……?」
ヴァレリウスは、腐りかけた右手の甲に、見覚えのある『火傷の痕』があることに気がついた。
三日月型に歪んだ、古い火傷の痕。
それは間違いなく、かつて実験の失敗で弟子であるテオが負った傷と全く同じ形だった。
――『魔法を使うたびに、お前の体は、お前が殺した弟子の死体とすり替わっていく』。
ふと、そんな恐ろしい確信が頭をよぎる。
今日、王族の前で強力な魔法を使ったから、一気に手首まで『テオの死体』に侵食されたのだ。
「ば、馬鹿な……。私が、あの薄汚い平民の死体と混ざり合うだと……!? 冗談ではない!」
ヴァレリウスは吐き気を催し、洗面器に何度も嘔吐した。
今すぐ、あの魔導書を燃やしてしまわなければ。そして二度と、あの魔法を使ってはならない。
そう決意し、魔導書を暖炉に放り込もうとした、その時だった。
コンコン。
「――ヴァレリウス様。王宮からの急使です!」
扉の向こうから、秘書の興奮した声が響いた。
「さ、先ほどの魔法の美しさに国王陛下が大変感銘を受けられまして! 明後日の『建国記念祭』のクライマックスにて、国中の民の前で、先ほどの魔法のさらに上位となる【神聖炎陣】を披露してほしいとの勅命が下りました!」
「……なっ!?」
ヴァレリウスは、手に持っていた魔導書を取り落とした。
建国記念祭での魔法披露。それは、国一番の魔術師にのみ与えられる、魔術師にとっての最高の名誉。これを見事に成功させれば、彼の名声は永遠のものとなる。
しかし、それを断れば?
「体調不良」などと理由をつければ、一気に疑いの目を向けられ、名声は地に落ちるだろう。王の期待を裏切った代償は計り知れない。
「……ヴァレリウス様? いかがなさいましたか?」
「あ、ああ……! 喜んでお受けすると、使者に伝えろ!!」
扉越しにそう叫んだヴァレリウスの顔は、脂汗に塗れ、絶望に歪んでいた。
彼に残された道は二つ。
魔法を使うのをやめて、築き上げた名声と地位をすべて失い、凡人以下のペテン師に転落するか。
それとも、名声を守るために極大魔法を使い、自らの体が『腐敗したバケモノ』に侵食されるのを受け入れるか。
床に落ちた魔導書のページが、風もないのにパラパラと捲れる。
開かれたページには、まるで彼を嘲笑うかのように、テオの筆跡で書かれた術式が、どす黒い血の色でねっとりと浮かび上がっていた。




