第74話 月光花 ☾ ᛚᚢᚾᚨᚱᛁᚨ ☽
カノンを護りし暗黒神ヴァイロ・カノン・アルベェリア。愛しき17歳頃の少女、リンネの唇を奪う慰みを望んだ。
『ガブッ!』
噛みつかれた行動が脳へ直に響く衝撃を受けた偽りの暗黒神。リンネからのよもやなる大胆な報復。
「り、リンネ!? な、何しやがる! それに名前を間違えるとは?」
リンネに返す言葉が汚く濁った暗黒神の酷い動揺。
「何しやがるぅ? 下っ手くそなんだよ演技がッ! 私がヴァイの事を言い間違える訳がないだろ!」
リンネが12の頃から密かに焦がれた男。ましてやこれまでも、苦楽を共にした間柄だ。呼び名を違えるだなんてある訳がなかった。
音使いリンネの小さな胸を張った大声──黒い神竜ノヴァンの鼓膜を多大に揺さぶる煽りを誘う。
「チィッ! い、何時気づいた!?」
流石にもう付き合い切れないと悟ったヴァイロに化けたノヴァンの舌打ち。
「確信したのはさっき! アンタを抱き締めた時の匂い。それからアンタの声が震わす空気の流れかしら?」
好きな異性の体臭ほど女性を薬の様に狂わすもの。
さらにリンネは『音の波』に代表される自分の声や音の放つ周波を自由に扱う者。
ノヴァンは暗黒神ヴァイロの影より錬成した魂を宿した存在。依って影の元締めにも転じられた次第。
されどノヴァンの魂は造られた全くの別物。しかもこのリンネが声を授けた。実の母と云うべき相手を誑かすのは流石に無理が生じた。
「おかしいなって思ったのはこの間──バンデの前でアンタが啖呵を切った時。人前なのに私を物みたいに無理矢理抱いたあの後さ!」
「……!」
今のリンネが言い放った切欠には僅かばかりの脚色がある。例え偽りの抱擁だったとしても美化したい揺れる女心。
『カノンの暗黒神をこの島の必要悪にしたかった』
貴族バンデの本音が明かされたとき、心穏やかなるヴァイロがバンデを嘲笑いつつ、リンネを抱き寄せあたかも『自分の女』と主張しながら言い切った宣言。
『とんだお笑い種だなバンデ。俺は暗黒神ヴァイロ様だ、亜人達も全て囲ってやる。だが争いに巻き込む以上、今後も命の保証は出来ない』
「──あの時は皆の前で抱かれたから、此処まで気が回らなかった。だけど後にしてみれば誰でも巻き込むだなんてヴァイの言葉らしくないって思えた」
皆を護る──一見、耳障りの心地良き台詞。
なれど必ず枕詞に付くと思しき『俺の戦争』
リンネの小さな肩が震え始める。この肩を抱いてくれた余韻が未だに後を引き摺るのだ。例えそれが偽物だと知ろうとも。理屈ではなかった。
「ふぅ……我がこの力に気づいた時、ヴァイロの奴は『それは便利だ』って笑っ……た?」
一人称『我』へ戻ったノヴァンの言い訳が紡ぎ出されると思えた次なる時間。
ポタッ……ポタポタポタポタッ。
家の中に伝いゆく涙雨。
生き物達へ酸素と水を送り届ける緑の化身思わすリンネが降らせた雨粒に、気づいた黒い竜の化身。
普段気丈な娘がこれしきの事柄にて、慟哭に揺らぐとは思えなんだ獣へ堕ちたノヴァンの表装。
「り、リンネ……!?」
「アァァァァッ! 判らないだろうなアンタにはッ! 好きな人から嘘をつかれた女の哀しみなんてさ!」
驚き慌てるノヴァンを他所に、隙間だらけの床板に向かい絶叫を共連れに涙をひたすら零したリンネ。たったひと粒の歪みが産んだ虚偽の輪廻。
ダンッダンッダンッ!
「彼奴は誓ってくれたんだ! 『お前に絶対嘘はつかない、全てを明かす』ってさぁ!」
戦之女神に関わる秘密の全てをヴァイロはリンネへ暴露したのだ。
秘密を共有して貰える──愛に限らず自分はヴァイロに真から認められたと思い、彼女自身も覚悟を固めた。完璧に裏切られた感。
家屋としては虚弱過ぎた枝葉の小屋が基礎毎揺れ動く地震をリンネの叩いた小さな拳が引き起こす。
ツリーハウスを支える樹木に同居している鳥達が一斉に目覚め、飛び去る喧騒が辺りに響いた。
「よ、止せリンネ! それ以上やったら拳が壊れて血が噴き出す!」
「離せよ馬鹿ドラゴンッ! 私に触んなァッ!」
黒の魔道士姿を続けたノヴァンがリンネを背後から羽交い締めにした心配の体現。
振り解くべく涙を散らして暴れるリンネの虚しさ。リンネの温かみと切なさ滲んだ雨が創られた竜に沁み入る。
さりとてヴァイロの影を担うノヴァン、力比べにも満たなかった悔しみ。
動けなくなったリンネ、心の貧しさ。ヴァイロに認められなかった弱い自分、そんなものならいっそ壊したかった。
「……ヴァイロの馬鹿は何処に行った?」
偽物に両腕を押さえつけられたままの姿。心の侘しさ募るリンネ。力なく項垂れた質問。
「誓って知らんのだ──だがリンネよ、お前とて多方知れてはいまいか?」
主人ヴァイロの影を背負った状態にて首を横に振ったノヴァンの真実。押さえていたリンネの腕をゆっくり解いた。
「レアットの所か……」
またしても床上に塞ぎ込むリンネ。
偽りだけを残して、他の女の元へ走ったのであれば、女の嫉妬を燃やし切ればいいだけの単純な話。
その他の女すらカノンにて亜人達の世話焼きに、精を出しているのをリンネも重々承知していた。
愛する自分は勿論、一番弟子アギドをはじめ、皆の前から行方を眩ませた闇色の神様。
自分よりも大人の魅惑溢れたシアン・ノイン・ロッソか、女の子の可愛さ湛えたミリアに走ったのであれば、まだ救いがあると思えたリンネの寂しさが滲む。
ヴァイロと同じ男、ましてや元を辿れば余所者と云えたレアットの元へたった独りで走った。心に深過ぎる穴が開いたリンネの想い。
──一体何時からこんな事を?
リンネ自身のみならず、家族達すら裏切られた最低に沈んだ。
「リンネ、く、くれぐれも我の事は……」
未だに主人のフリを続ける黒い神竜の言い逃れ。もし自分の正体が他へ洩れようものなら、暗黒神の神格が底辺に失墜するのだ。
「言わないさ面倒臭い! だ、だけどいずれ勘のいいアギド辺りは、どうせ気づくだろうよ……」
秘密を言いふらす処か、語る事さえ嫌悪しかないリンネ。
されど他人の気分を見透かす態度を見せるアギドならば、何れ勝手に知覚するだろう。
いや──アギドならば知った上で敢えて静観を装っているのかも知れない。リンネは言いながら、ふと予見した。




