84話 少女だけが知っている
吐き気がして、勝手に涙が頬を伝う。
でも、ここには壁がない。
皇帝の住まいでもない。
串焼きを食べた大通りだった。
「ブゥヨジェンマ?」
串焼きを手にした少女は、繰り返し私に声をかけている。
不安げな顔は、「大丈夫?」と尋ねているように見えた。
「大丈夫……だよ」
涙を拭い、無理やりにでも微笑んだ、その時。
「おい、こっち向け」
少し強引な手に引き寄せられた。
「あ……」
そういえば、ウェンゴウと一緒に壁の中へ呑まれたのを忘れていた。
彼は息がかかりそうな距離で私の顔を観察した後、深いため息とともに腕を解放してくれた。
「奴の魔力に呑まれちゃいねぇ。腐っても聖女か」
「……腐ってもは余計だ」
口は動いても、今は強がることすらできなかった。
串焼きを差し出してくれる少女から串を受け取り、温かい肉を頬張ったところで――。
「ミュウルさ~ん!」
砂煙を上げて駆けてくるのは、重そうな鞄を背負ったギザール。
それに、ギザールを追い越してきたジェニファだ。
「ミュウル様、お顔の色が……!」
「そっちも、どうしたの?」
「いや、お城の門前で二人を待ってたんすけどね。あの衛兵さんたち、突然態度が変わって……」
捕まりそうになり、走って逃げてきた。
ギザールは息を整えながら、話してくれた。
「それって……」
ここに留まっていてはマズいのでは――と、口にするよりも早く、通りの奥から走ってくる衛兵の影が見えた。
「そうなんっすよ! 串焼き食べてないで、行きますよ!」
「逃げ延びたら、そちらの殿方から詳しくお話をうかがいませんと」
「……それ、俺のことか?」
ウェンゴウが煙草を取り出そうとする手を引き、さっさと逃げようとしたところ――。
「ジィェリ!」
「え……?」
串焼き屋の少女の小さな手に、腕を引かれた。
「ギザール、なんて?」
「ええと、これは……『こっち来て』っす!」
「あんまり訳したことのない言語なんすよ」とぼやきながら、ギザールも後に続いて走り出した。
そして、相変わらずのんびりと煙草を吸うウェンゴウを、ジェニファが引っ張っている。
赤い髪紐を翻して走る少女が、私たち4人を案内してくれたのは――裏通りにある小さな商家の中だった。
木組みの室内には、落ち着いた木の香りと串焼きの匂いが混ざり合っている。
「ここ、あなたの家……?」
糸のように目を細める少女は、両手を合わせて頭を下げた。
「んと、『わたしは眠民。お客さんたち、なにしたの?』……っすかね」
「なにって……」
よく分からないまま、衛兵に追われる私たちを匿ってくれたのか――。
眠民は白磁の茶器と湯呑みを出して、「『もっと詳しく聞かせて』」と言った。
「いいの? あなたも危なくなるかもしれないのに」
「それ、ほんとにそうっすけど……この子、『そんなことより』ですって」
眠民は、私たちが追われる理由を聞きたいという。
「私は良いけど……」
ようやく煙草をしまったウェンゴウに視線を向ければ、彼は「俺が話すのか?」と頭を掻いた。
「当然だ。私たち、ウェンゴウのこと、まだよく知らないんだから」
元勇者パーティーの彼が、ただ私たちを国へ連れ戻しに来たわけではないことは分かった。
でも、皇帝との戦いに、どうして私を連れて行ったのかはまだ聞いていない。
「『そっか、お姉さんたちは……』」
“皇帝”という言葉を出した直後、なぜか眠民は俯いてしまった。
彼女は、この都を支配する者が人ではないと気づいているのだろうか――。
「ん、待ってください。ミュウルさんたちは上で皇帝ってやつと戦闘になって……そいつの魔法じゃない力で、突然大通りに飛ばされたってことっすか?」
「うん……」
『魔法じゃない力』というので、ギザールは察したかもしれない。
皇帝が魔族だということを。
「それで、なぜ元勇者パーティーのオジサマが皇帝を倒しに?」
私の身体のあちこちを診察しながら、ジェニファが言った。
「俺ぁ雇われの魔族ハンターだ」
ウェンゴウは「魔族の残党狩りだ」とため息を吐き出した。
「元仲間から異変を聞いて、俺がここへ来ることになった」
そこでウェンゴウは私を見て、ようやく本題を口にした。
「お前さんが必要だった」と。
「嬢ちゃんの力をちぃっと、あの壁を越えるのに使わせてもらった」
「え……でも」
都に入った時、私は気絶していたはずだ。
壁を壊した覚えもない。
「壊すだけが越える方法じゃねぇの」
稀に見る笑顔に、何だかはぐらかされた気がした。
でも、ようやく分かった。
ウェンゴウは私の聖力を必要としていたのだ。
勝手に使われたことには、やっぱり腹が立つけれど――。
「……なぁ、眠民ちゃんとやら。この都、なんか変だと思わねぇか?」
「でた、またそれ」
強大な力を持つ魔族、“皇帝”が、この都を支配しているからではないのか。
そう指摘すれば、ウェンゴウはお茶のお代わりをもらいながら首を横に振った。
「だから、皇帝が魔族だってだけじゃねぇ。この都そのものの、何が変なのかって聞いてんだ」
「あっ」
急に声を上げたのは、ジェニファだった。
「転んで泣いていた子どもの膝に、傷ができていませんでした。偶然かと思いましたけれど、もしかして……」
そういえば、通りを歩いている時にそんなことを言っていたけれど――。
「転んで血が出ない……怪我してもすぐに治るってこと?」
それがこの都の異変だと言うのか。
ジェニファは答え合わせを望むように、眠民の方を真剣に見ていた。
やがて、ギザールが眠民に何かを伝えた直後――彼女は笑みを消して、窓の外へ視線を向けた。
「『あのお向かいの爺さん、この間亡くなったのに、また屋台を開いているの』」
「え……」
まさかと思って外を見ると、老人が声を張って饅頭を売っていた。
「……どういうこと?」
まさか、生き返ったわけでもあるまいし。
冗談混じりに、そう呟くと。
「『この都の人たちは、繰り返してるんだ』」
瞬きもせず、眠民は外を眺めている。
窓の外の誰も、死んだはずの老人を不思議そうに見ていなかった。それを異常だと知っているのは、この少女だけなのかもしれない。
ただ、彼女が言おうとしていることが信じられない。
「ジェニファさんの話と眠民ちゃんの話を合わせると、もしかして……」
でも、そんなはずは――と、ギザールも口に出すことをためらっている。
そんな彼に、「言って」と先を促すと。
外のにぎわいを眺めながら、ギザールは息を呑んだ。
「みんな不死……なんじゃないっすか?」




