83話 壁を操る皇帝
石造りの城の中には、甘ったるい線香の煙が漂っていた。
門前を守る革の鎧の衛兵たちは、その匂いに酔っているみたいにぼうっとしている。
「すんなり入れたけど、なんで?」
煙にむせているウェンゴウに尋ねると、代わりにギザールが隣に並んだ。
「“皇帝”とかっていう王様が、オレらを通すように命令してたらしいっすよ」
「……私たちのこと、もう知ってるってこと?」
石畳みしかない中庭を横断する間、城の中で働く人たちは、私たちにお辞儀をするだけで通り過ぎていく。
まるで、私たちが見えていないかのようだ。
「……なんだか気持ち悪いですわね」
「大丈夫?」
ジェニファも甘い匂いに酔ったのだろうか。
背中をさすろうと、彼女の後ろに回ったところで。
「うわっ、なんすか!?」
衛兵たちが、いつの間にかギザールの肩を叩いていた。
「皇帝がいる屋上に行けるのは、ウェンゴウさんと付き添いひとりだけだって言ってますね」
「ひとりだけ……」
皇帝という人物が、すでに私たちのことを知っているとして。そう指示を出したのには、きっと理由があるはずだ。
そもそもウェンゴウは、ここに来た目的をまだ教えてくれない。
でも、勇者の依頼を蹴ってまで、わざわざ連れてきたということは――。
「ウェンゴウ、私が行く」
「……だな」
彼は何か、私に見せたいものがあるはずだ。
見上げた顔は、通りを歩いている時とはまるで違っていた。
相変わらず目には覇気がないのに、肌が粟立つような気配を放っている。
「ギザール、ジェニファ……外で待ってたほうがいいかも」
念のため、二人に元の通りへ向かうよう言って、背中を向けたウェンゴウに続いた。
右へ、左へと、長い石の階段が続いている。
単調でひんやりとした空間を上へと昇るうちに、やがて――少し湿った風が髪をさらっていった。
「ここは……」
見渡すほどの、石造りの屋上。
眼下には紅都の旗が踊り、市場のにぎわいが遠くに聞こえる。
風に混じるのは、香辛料や焼き物の匂い。
そんなものを見下ろしながら、少しも動かない男がいた。
「ウェンゴウ、あれが……?」
「おう、違いねぇな」
彼の纏う闇色の衣だけが、風に逆らって動いている。
「来たな、我が都へ踏み入った者たちよ」
振り返ったのは、顔を面布で隠した大男だった。
首から上が、ぼんやりと濁って見える。
「皇帝……?」
声がこぼれた瞬間、大男は布を揺らした。
「我を恐れず見つめるか。貴様は……」
彼が息を吸い、口を閉じた、その瞬間――膝が崩れ落ちた。
「……!」
いま、何が起こったのか。
オーリウスやヴァニアの、肺が重くなるような魔力の圧とも違う。
ウェンゴウの、にじみ出る気迫とも違う。
内側から少しずつ解体されて、身体の中を覗かれているような気分だ。
「そうか。ヒトの有する聖なる力をもって、“壁”を越えたか」
膝をついたまま、せめて拳だけは握ったけれど。
隣のウェンゴウは、何事もなかったかのように仁王立ちしている。
「よぉ魔族の。そろそろ俺の事情、話して良いか?」
「……っ!」
魔族。
いま、確かにそう言った。
「ここ最近、東に妙な城壁が立ってるって聞いたんだわ。しかもその壁、終わりがねぇとか」
「終わりがない……?」
思わず漏れた声に、ウェンゴウは「ああ」と呟いた。
「上から越えようが、魔法をぶつけようが、びくともしなかったらしい」
旅の考古学者から聞いたと言うが――。
「それって……」
元勇者パーティーにしてギザールの師匠、ヴァニアのことかもしれない。
「どう考えても普通じゃねぇ。そんなもんを、帰郷がてら見に来たってわけだが……お前さんの仕業だな?」
「そうか。その目、その肌……我が国の古き血を継ぎしものか」
皇帝が宙に手をかざすと、何もないところに黒い線が現れた。
空間を切り取るように開いたそれは、一枚の黒い正方形へ広がっていく。
「壁……?」
ウェンゴウと皇帝の間にそびえた壁は、風ではない何かの力で揺らめいていた。
肌で感じる。
あれは世界を隔てる壁と同じものなのだと。
それに――あれが現れた時の音が、壁を殴った時のものと似ていた。
「この国を囲ってる壁を解け。外からも中からも、まともに通れやしねぇ」
ウェンゴウは皇帝へ、まっすぐそう言い放った。
でも――皇帝の放つ圧が、息苦しいまでに上がっている。
ついに足先すら動かせなくなった。
「……ここは我の国。去れ」
「おう。んじゃ、やるか」
ウェンゴウは「待ってました」とばかりに即答し、ジャケットに手をかけた。
内側に吊り下げられていたナイフが、すべて石床へ落ちていく。
「え……?」
カラン、カラン、と高い音が響く中、ウェンゴウは開いた両手を構えた。
まさか私と対峙した時と同じく、素手でやろうというのか。
皇帝の作り出した壁が、カーテンのように揺れた。
「ほう、賢明だ」
ウェンゴウが髪の毛一本すら動かさなくなった、その直後。
壁にウェンゴウの手のひらが触れていた。
でも――瞬きの間に繰り出された張り手を、壁はふわりと受け止めている。
「……!」
ウェンゴウは舌打ちをしながら、「やっぱりかよ」と呟いた。
間髪入れずに壁を避け、彼は皇帝の間合いに滑り込もうとしたが――。
面布の隙間から覗く皇帝の赤眼は、ウェンゴウではなく、壁に触れたその手だけを追っていた。
「……なるほど。貴様ではなさそうだ」
「なんのことだ、よっ!」
外側から見て、ようやく少し分かった気がした。
ウェンゴウの動きが、急にゆっくりになったわけではない。
私が瞬きをする瞬間、息を吐く瞬間――意識が途切れる隙間だけを選んで動いているように見える。
でも――皇帝の壁は、ウェンゴウの動きに合わせて、自在に形と位置を変えている。繰り出される手すべてを、柔らかい布のように受け流していた。
「ふむ……面倒な使い手よ」
皇帝の足が、一歩下がった。
「いまか……!」
途端に、ウェンゴウが壁の中へ足を踏み込んだが――壁は、瞬時にウェンゴウを飲み込んだ。
「ウェンゴウ……!?」
閉じた壁が消えてしまった。
かと思いきや――皇帝から離れた場所に現れた壁が、ポカンとするウェンゴウを吐き出した。
「壁の中を通して、別の場所へ飛ばした……?」
皇帝は、自在に壁を操っている。
頭が追いつかないけれど、とにかくウェンゴウに加勢しなければ――そう思っても、まだ膝に力が入らない。
「くっ……」
仮に動けたとしても、私はあそこに入ってはいけない。
ウェンゴウの、音を置き去りにする足さばき――今の私が割り込んでも、あれにはついていけそうにない。
皇帝の圧に潰されないようにするだけで、精一杯だ。
それでも。
瞬きの間に消えては現れる壁を、ウェンゴウは着実にかわし始めている。
(すごい……速さだけじゃない)
徐々に皇帝へと距離を詰め、ついに彼の指先が黒い衣の端にかかった、その時。
「貴様は邪魔だ。次はあの女だけで良い」
「え……?」
皇帝が振り返った。
布越しからでも、突き刺さるような視線を感じる。
そのゾッとする気配に気をとられる間に、周囲が暗くなった。
「……っ、これは!」
壁だ。
四方八方を塞ぐ壁が、私を押し潰すように迫っている。
「クソッ……!」
ウェンゴウの指先が、私の腕を手繰り寄せた。
けれど、閉じる壁のほうが速い。
私を離さなかったせいで、ウェンゴウの身体まで一緒に暗闇へ引きずり込まれた。
「おい、ミュウル!」
「ウェンゴウ……?」
手首に、彼の手の温度だけは感じる。
でも、ここは真っ暗闇の中だ。
嵐のように吹く絶叫が、轟々と響いている。
誰かが、「助けて」と口々に叫んでいる。
「なに、これ……」
これが壁の中なのか。
それとも、どこか別の場所へ飛ばされてしまったのか。
何も分からないうちに、私は――明るい路上に立っていた。
「ブゥヨジェンマ?」
「……え?」
眉根を寄せてこちらを見上げているのは、あの串焼き屋の少女だった。




