81話 船上で、届かない拳。
半ば本気の拳だった。
でも――澄ました彼の顔には、届いていない。
「どうして……」
ギザールを肩に担いだ、青髪のおじさん。
彼は私の拳に触れることなく、滑らかに後ろへ下がったように見えた。
「うん、ジュニアに聞いてたよりも格段に良いな」
「ジュニア……?」
さっきも確か、選抜隊の名前を出していたはずだ。
この人、私のことを知っているのか――。
「俺ぁウェンゴウってんだ。嬢ちゃんは?」
「……ない」
「ん?」
「仲間を傷つけた人に名乗る名前はない……!」
最初の一発を避けたのは、まぐれに決まっている。
さらにもう一発、ウェンゴウという男が口を開くより早く、拳を打ち込んだ――が。
まただ。
触れられた感覚はないのに、拳が彼を避けるみたいに逸れていく。
「あー、屈辱か? なら、ちゃんと相手してやる」
「……っ」
この人、魔力の圧はない。
けれど、呼吸の静かさと立ち姿から、今の私が到達していない“何か”が伝わってくる。
「金髪の嬢ちゃん、こいつちょっと見といてやってくれや」
「まぁ……!」
ウェンゴウは少し乱暴に、でも確かに、ギザールをジェニファへ預けた。
「心配すんな。うっせぇから気絶させただけだ」
それでも、まだ構えは解けない。
上着に手をかけて、何をするつもりなのか――彼の指先の動きひとつまで、瞬きもせず見つめていると。
少し汚れたジャケットの内側から、何十本ものナイフが現れた。
「……ナイフ使い?」
「これは仕事用の得物だ。ちゃんとやるなら、錘は外すさ」
言葉と同時に、彼はナイフを甲板の上へ落とし始めた。
カラン、カランと、金属の擦れる音が響き合う。
(舐められてる……?)
私相手に、得物は使わないということか。
でも彼は、魔族でもなければ穢れ獣でもない。
ただの人間だ。
生身の人間相手に全力で殴ったら、壊れてしまうかもしれない――。
そう思うと、拳が震えた。
「どうした? そっちから来いよ」
気だるげな表情が、少し挑発的に変わった。
額に、そして背筋に汗が伝う。
「……分かった」
生身の人間を本気で殴ったことがない。
それでも――今は彼を、なんとかして無力化しなければ。
「……っ、はぁ!」
一発が当たらないなら、何度でも殴ればいい。
余裕の顔に向けて、何度も、何度も――上、下、右、左、振り分けて拳を繰り出す。
そのうち、妙な感覚が拳を覆っていることに気がついた。
目に見えない風のようなものが、軌道を逸らしている。
そして、軌道とは逆方向に、彼が身体をねじっている。ただ、彼の足は一歩も動いていなかった。
(……なんなの?)
どういう理屈かは分からないが、そのせいで一向に拳が当たらない。
しかも、あちらからは攻撃してこない。
「ちょいと俺の話を聞いて欲しいだけなんだが、ダメか?」
「……っ」
ギザールを傷つけた相手の言うことを、真に受けてはいけない。
ただ――このままだと、こっちの体力が削られるだけだ。
いったん距離を取り、深く息を吐き出した。
壁にするのと同じ“聖力パンチ”を人間に当てたら、どうなるか――傷つけても、聖力なら同時に癒せるはずだ。
それでも、壊さないように力は抑える。
気絶させられれば、それでいい。
拳に光を宿したところで、目の前のウェンゴウの動きが、突然ゆっくりになった。
「え……?」
彼の瞬きすら、時間が止まったかのように見える。
そんな中――胸がドクンと跳ねた。
今なら、確実に拳を当てられる。
「来いよ」
「……っ!」
いける。
でも、良いのか――。
私の感覚が、急に進化したわけでもない。
確実に彼が何かをしたはずだ。
相反する気持ちがせめぎ合う中。
身体はごく自然に力を溜め、甲板の床を軋ませていた。
「来い」といって口角を上げるウェンゴウに、眩い光を放つ拳を叩き込んだ、その瞬間。
(届いた……!?)
初めて、拳の骨まで震える手応えがあった。
壁ではない、肉の感触。
いや――触れたのは肉ではない。
いつの間にか差し込まれていた、布を巻いた手だった。
「真正面からしか来ねぇんだな、お前さん」
「え……?」
ウェンゴウは倒れていない。
ゆっくりな動きで私を見下ろしていた彼が、いつの間にか、私の耳元に口を寄せていた。
「まぁいい。壁を越えるまで、寝てろ」
耳元の囁きの直後。
首の後ろに強い衝撃が走った。
「……っ」
拳が握れない。
視界が歪んでいく。
夕日を映した瞳を最後に、目の前が真っ暗になった。
「……っはぁ!」
重い瞼を開いた、直後。
頬をかすめたのは、潮風ではなく、甘辛い煙の匂いだった。
「どこ……ここ」
曇天の空に、真っ赤な旗がひらめいている。
首を回せば、逆さになった瓦屋根の家屋、広い道を我が物顔でふらつく犬や鶏が見えた。
手足は動く。
でも、なんだか身体が揺れているような――。
「起きたか、嬢ちゃん」
「……!」
古傷の顔がこちらを覗き込み、とっさに飛び上がろうとしたけれど――身体が動かなかった。
あのおじさん――ウェンゴウのたくましい肩に、米俵のように担がれていたのだ。
「離して……!」
「おっと」
私が肩から飛び降りても、ウェンゴウは顔色ひとつ変えずに私を見るだけだった。
「ここはどこ? ギザールたちは? 私を連れてきて、どうするつもり……?」
これまでの修道国や砂漠、密林、孤島とはまるで違う都。
“前の私”の記憶にある、東方の古い街並みによく似ている。
露店の串焼きの匂いが漂い、商人たちの活気にあふれた通りの中――私たちだけが異質だった。
「ここは凛紅……俺の遠い先祖の生まれ故郷だ」




