80話 歩き始める理由
大汽船の低い音が轟く中。
青く燃えるヌァサ・メラの麓に向かって、いつまでも手を振っていると。
「ミュウルさん、これ! 甲板に真っ赤な絨毯が敷かれてるんっすけど」
「ギザール……」
ラディンとグレゴリィとの別れの余韻もないまま、ギザールは東洋風の装飾に目を輝かせていた。
孤島の空は、まだ灰色のまま。
私も――噴火の凄まじい光景が、まだ頭から離れない。
「なんすか? 土地との別れなんて、いつものことでしょ」
「うん、そうだけど……」
「どうせまた来るんですし、次の土地に思いを馳せましょ」
こういう時、彼は意外とさっぱりしている。
甲板の端っこで薬品ポーチの整理をしていたジェニファも、孤島の浜を振り返ることなく立ち上がった。
「ミュウル様、少し休まれては? 病み上がりのお馬鹿さんが無茶しないよう、私が見張っていますから」
「じゃあ……中、見てこようかな」
命がけの村移動の疲れが、まだ抜けていないのかもしれない。
騒ぐギザールと止めるジェニファに背を向け、船内へ続く階段を降りようとしたところで。
壁のような何かにぶつかった。
「……っ」
とっさに顔を上げると、青髪の男が目を丸くしていた。
右目の、縦に裂かれたような古傷が目立っている。
(壁じゃなくて、おじさんの胸板だったのか……)
「ごめんなさい」
「ん、そりゃ俺のセリフだ。嬢ちゃん大丈夫か?」
何事もなかったかのように通り過ぎていく彼に、思わず忘れかけたが――私とぶつかっても飛ばされない人は、滅多にいない。
「……筋肉、すごかったな」
ただの観光船かと思ったけれど、傭兵や冒険者たちも乗り合わせているみたいだ。
船室の窓を覗きながら、ふと耳飾りに手を触れた。
「ねぇ、オーリウス。ここってどこら辺なの?」
すると、耳元にザザッと雑音が走り、『はい』と低い声が響いた。
『現在その船は、火山帯の孤島から離れ、北東へ向かっています』
「そうなんだ」
具体的な距離を数字で聞いても、もう分からない。
そう言うと、オーリウスは『存じております』といつもの硬い調子で返してきた。
『あなたがいつか歩く道を、私は踏み固めているだけなんだ』――
前回の通信では、そう伝えた直後に通信を切られてしまったけれど。
彼はもう、いつも通りに戻っている。
『……ジェニファさんのおっしゃる通りでしたね』
「なんのこと?」
『貴女は人をたらし込む才能がある』
「たら……ああ」
さっき、ラディンに求婚されたことを言っているのだろう。
もう見えなくなった砂浜の方を眺めると、青い山の頂だけが光って見えた気がした。
「一緒に火山を登っただけなんだけどね」
『しかも自覚が薄いのですから、厄介です』
「……どうしたの?」
彼が淡々としていて、少し不機嫌そうなのはいつものことだとして。
ため息を吐くなんて、オーリウスらしくない。
『いえ……そんな貴女にたらし込まれたのは、ラディンさんだけではないということです』
「……?」
どういうことかと聞き返せば、返事の代わりに車輪の音が聞こえてきた。
どこかに移動しているみたいだ。
『少し、窓辺に近づきました』
貴女が見える気がして――。
さりげない言葉に、胸が小さく跳ねた。
「……ここ、そっちから数万キロ離れてるんでしょ?」
『そうですが、そうではなくて』
海は繋がっている。
オーリウスの声は、いつもより少しだけ弾んでいた。
『貴女が私と同じ海を見ているのだと思うと、リハビリも熱が入りそうです』
「……え?」
一瞬、聞き逃しそうになったけれど。
確かにいま、“リハビリ”と言った。
『貴女と一緒ならば、私も世界を歩きたい』
「オーリウス……」
『殴り続けていれば、いつかは外へは出られるのでしょう?』
それはいつか、私がジェニファに向けた言葉だ。
「聞いててくれたんだ」
『裏で密かにですが……あの時の言葉、いまも胸に残っています』
彼の素直な言葉が、胸に溶けていく。
瞳が熱い。
思わず「ありがとう」と言えば、少し間の抜けた『は?』という声が返ってきた。
『なぜ貴女が礼を?』
「だって……」
もしかしたら、本当に独りよがりな願いなのかもしれないと思っていた。
でも、願わずにはいられなかった。
それが――たった今、少しだけ叶ったらしい。
「でも……勇者がどうして私たちを国へ戻そうとするのかは、教えてくれないんだ」
水を差すと分かっていても、どうしても今聞きたかった。
オーリウスは私たちとの旅を諦めていない。
でも、勇者との旅の一部を秘密にしたまま。
今回のことだって――。
少しずつ水平線に沈んでいく夕日を見つめながら、返答を待っていると。
オーリウスは、「まだそれを話すべきではない」と囁くように言った。
『いま言えるのは、ひとつだけです』
ヴァニアのように、選抜隊を帰還させるよう勇者から依頼を受けた元勇者パーティーは、他にもいる。
真剣なオーリウスの忠告に、肩が震えた。
「そっか……」
オーリウスは私たちを旅に送り出してくれた。
通信越しでも、いつも安否を心配してくれる。
でも、肝心なことは教えてくれない。
『秘密ばかりで呆れましたか?』
「え……?」
私の頭の中を読んだかのような言いぶりに、「それは」――と言葉を詰まらせた、その時。
甲高い悲鳴に、全身がざわついた。
『今のは……』
「オーリウス、また後で!」
さっきの悲鳴は、間違いなくジェニファのものだ。
階段をひとっ飛びして、赤い帆のはためく甲板へ出ると。
「ジェニファ!?」
夕日に重なる影は二つに見えた。
けれど、男の腕にはもう一人――ぐったりしたギザールが抱えられている。
「ん? さっきの嬢ちゃんじゃねぇか」
右目の傷と、あの眼光の鈍い目――船室前でぶつかった男だ。
「ミュウル様……あの人が、ギザールさんを!」
ジェニファが薬瓶を両手に構え、男を睨みつけている。
何が起こっているのかは分からない。
でも――ギザールの意識がない。
「……離せ」
熱を帯びた拳。
そこに、夕焼けを塗り替える光が集まっていく。
「もしかして嬢ちゃんが、非公式選抜隊とやらのメンバーだったのか?」
「ギザールを離せ!」
大柄な男を捉え、息を吸う。
握り締めた拳が、ぎしりと軋んだ。
それを傷顔めがけて振り抜こうとした――その寸前。
男の覇気のない目が、ほんの少しだけ笑った気がした。




