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壁殴り聖女は世界地図を描く  作者: 見早
6章 青い火山は怒らない ―ヌァサ・メラ―
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80話 歩き始める理由

 大汽船の低い音が轟く中。

 青く燃えるヌァサ・メラの麓に向かって、いつまでも手を振っていると。


「ミュウルさん、これ! 甲板に真っ赤な絨毯が敷かれてるんっすけど」

「ギザール……」


 ラディンとグレゴリィとの別れの余韻もないまま、ギザールは東洋風の装飾に目を輝かせていた。


 孤島の空は、まだ灰色のまま。

 私も――噴火の凄まじい光景が、まだ頭から離れない。


「なんすか? 土地との別れなんて、いつものことでしょ」

「うん、そうだけど……」

「どうせまた来るんですし、次の土地に思いを馳せましょ」


 こういう時、彼は意外とさっぱりしている。


 甲板の端っこで薬品ポーチの整理をしていたジェニファも、孤島の浜を振り返ることなく立ち上がった。


「ミュウル様、少し休まれては? 病み上がりのお馬鹿さんが無茶しないよう、私が見張っていますから」

「じゃあ……中、見てこようかな」


 命がけの村移動の疲れが、まだ抜けていないのかもしれない。


 騒ぐギザールと止めるジェニファに背を向け、船内へ続く階段を降りようとしたところで。


 壁のような何かにぶつかった。


「……っ」


 とっさに顔を上げると、青髪の男が目を丸くしていた。

 右目の、縦に裂かれたような古傷が目立っている。


(壁じゃなくて、おじさんの胸板だったのか……)


「ごめんなさい」

「ん、そりゃ俺のセリフだ。嬢ちゃん大丈夫か?」


 何事もなかったかのように通り過ぎていく彼に、思わず忘れかけたが――私とぶつかっても飛ばされない人は、滅多にいない。


「……筋肉、すごかったな」


 ただの観光船かと思ったけれど、傭兵や冒険者たちも乗り合わせているみたいだ。


 船室の窓を覗きながら、ふと耳飾りに手を触れた。


「ねぇ、オーリウス。ここってどこら辺なの?」


 すると、耳元にザザッと雑音が走り、『はい』と低い声が響いた。


『現在その船は、火山帯の孤島から離れ、北東へ向かっています』

「そうなんだ」


 具体的な距離を数字で聞いても、もう分からない。

 そう言うと、オーリウスは『存じております』といつもの硬い調子で返してきた。


『あなたがいつか歩く道を、私は踏み固めているだけなんだ』――


 前回の通信では、そう伝えた直後に通信を切られてしまったけれど。

 彼はもう、いつも通りに戻っている。


『……ジェニファさんのおっしゃる通りでしたね』

「なんのこと?」

『貴女は人をたらし込む才能がある』

「たら……ああ」


 さっき、ラディンに求婚されたことを言っているのだろう。


 もう見えなくなった砂浜の方を眺めると、青い山の頂だけが光って見えた気がした。


「一緒に火山を登っただけなんだけどね」

『しかも自覚が薄いのですから、厄介です』

「……どうしたの?」


 彼が淡々としていて、少し不機嫌そうなのはいつものことだとして。

 ため息を吐くなんて、オーリウスらしくない。


『いえ……そんな貴女にたらし込まれたのは、ラディンさんだけではないということです』

「……?」


 どういうことかと聞き返せば、返事の代わりに車輪の音が聞こえてきた。

 どこかに移動しているみたいだ。


『少し、窓辺に近づきました』


 貴女が見える気がして――。


 さりげない言葉に、胸が小さく跳ねた。


「……ここ、そっちから数万キロ離れてるんでしょ?」

『そうですが、そうではなくて』


 海は繋がっている。

 オーリウスの声は、いつもより少しだけ弾んでいた。


『貴女が私と同じ海を見ているのだと思うと、リハビリも熱が入りそうです』

「……え?」


 一瞬、聞き逃しそうになったけれど。


 確かにいま、“リハビリ”と言った。


『貴女と一緒ならば、私も世界を歩きたい』

「オーリウス……」

『殴り続けていれば、いつかは外へは出られるのでしょう?』


 それはいつか、私がジェニファに向けた言葉だ。


「聞いててくれたんだ」

『裏で密かにですが……あの時の言葉、いまも胸に残っています』


 彼の素直な言葉が、胸に溶けていく。

 瞳が熱い。


 思わず「ありがとう」と言えば、少し間の抜けた『は?』という声が返ってきた。


『なぜ貴女が礼を?』

「だって……」


 もしかしたら、本当に独りよがりな願いなのかもしれないと思っていた。

 でも、願わずにはいられなかった。


 それが――たった今、少しだけ叶ったらしい。


「でも……勇者がどうして私たちを国へ戻そうとするのかは、教えてくれないんだ」


 水を差すと分かっていても、どうしても今聞きたかった。


 オーリウスは私たちとの旅を諦めていない。

 でも、勇者との旅の一部を秘密にしたまま。

 今回のことだって――。


 少しずつ水平線に沈んでいく夕日を見つめながら、返答を待っていると。


 オーリウスは、「まだそれを話すべきではない」と囁くように言った。


『いま言えるのは、ひとつだけです』


 ヴァニアのように、選抜隊を帰還させるよう勇者から依頼を受けた元勇者パーティーは、他にもいる。


 真剣なオーリウスの忠告に、肩が震えた。


「そっか……」


 オーリウスは私たちを旅に送り出してくれた。

 通信越しでも、いつも安否を心配してくれる。


 でも、肝心なことは教えてくれない。


『秘密ばかりで呆れましたか?』

「え……?」


 私の頭の中を読んだかのような言いぶりに、「それは」――と言葉を詰まらせた、その時。


 甲高い悲鳴に、全身がざわついた。


『今のは……』

「オーリウス、また後で!」


 さっきの悲鳴は、間違いなくジェニファのものだ。


 階段をひとっ飛びして、赤い帆のはためく甲板へ出ると。


「ジェニファ!?」


 夕日に重なる影は二つに見えた。

 けれど、男の腕にはもう一人――ぐったりしたギザールが抱えられている。


「ん? さっきの嬢ちゃんじゃねぇか」


 右目の傷と、あの眼光の鈍い目――船室前でぶつかった男だ。


「ミュウル様……あの人が、ギザールさんを!」

 

 ジェニファが薬瓶を両手に構え、男を睨みつけている。


 何が起こっているのかは分からない。

 でも――ギザールの意識がない。


「……離せ」


 熱を帯びた拳。

 そこに、夕焼けを塗り替える光が集まっていく。


「もしかして嬢ちゃんが、非公式選抜隊とやらのメンバーだったのか?」

「ギザールを離せ!」


 大柄な男を捉え、息を吸う。

 握り締めた拳が、ぎしりと軋んだ。


 それを傷顔めがけて振り抜こうとした――その寸前。


 男の覇気のない目が、ほんの少しだけ笑った気がした。

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