77話 聖女、道を開く。
この地鳴り――身体の奥がざわつく。
闇の中、大粒の灰が砂浜に降り注いでいた。
山鳴りが響くたびに、海鳥が翼をばたつかせて逃げていく。
「これは……」
これは、ただの予兆ではない。
もう、山が動き出している。
山の頂の青い炎が揺れ、細かい石が村に襲いかかっていた。
『ミュウル、どうしましたか!?』
「ごめんオーリウス、また後で!」
耳飾りの通信を切り、恐怖の叫びで満たされる浜を駆けた。
村の年寄りたちは、何やら唱えながら山に平伏している。
でも、今は彼らを気にしている場合ではない――その横をすり抜け、人の行き交う桟橋の上に飛び乗った。
「ラディン、どこ……!?」
「ミュウル様!」
中央の小屋前に人を集めているのは、ジェニファだ。
咳をする人たちに、口元を覆うための袋状の布を配っている。
「火山灰で、子どもやお年寄りの肺が……いえ、それより! ギザールさんの応援をお願いしますわ!」
ジェニファの指す小屋の中に、ギザールの横顔が見えた。
厳しい表情で、村人たちに何かを訴えている。
「ギザール!」
「ミュウルさん……! アンタもこの人らを説得してください」
この人、とギザールが見上げたのは、険しい表情のラディンだった。
その後ろには、彼に従う若者たちがいる。
ただ――ラディンは少し、肩を震わせていた。
「早く船の縄を切ったほうがいいって言ってるんっすけどね」
「駄目だ! せっかく村に炎が灯ったんだ……この船の小屋だって、何年もかけて親父たちが……!」
今はそんなことを言っている場合ではない。
そう叫び出したかったが、言ったところでラディンは聞き入れそうになかった。
「ラディン、外を見て!」
「あっ……おいミュウル!」
無理矢理にでも彼の腕を引き、外へ連れ出した。
もはや真夜中でも、輪郭が見えるほどに山は燃えている。
「あ……」
噴煙が太く上がり、灰が空を隠して月明かりさえない。
混乱した観光客と村人が行き来する桟橋が、落ちそうなほどに揺れていた。
その光景に、ラディンの震えが大きくなっていく。
「分かった? もう、考えてる時間はない」
「でも、俺は……っ」
彼はきっと、頭で分かってはいるのだろう。
唇を噛み締め、ひどく汗をかいた顔を歪めている。
もういっそ、彼を連れて逃げ出すしかないのだろうか――。
彼の震える手を握ろうとした、その時。
「命さえあれば、またやり直せる!」
小屋前から、強い声が飛んできた。
「あれは……」
グレゴリィだ。
彼はジェニファと一緒に、治療する手を動かしたまま、こちらをまっすぐ見つめている。
「これは逃げじゃない。やり直すために退くだけだよ」
「先生……」
白髪に灰をかぶりながらも、グレゴリィの目は必死に訴えかけていた。
その目に対して、ラディンは――強く瞼を閉じ、やがて顔を上げた。
「……退けば、青い炎はまた灯せるのか?」
「ラディン……!」
私が握ろうとしていた手を、彼の方から強く握ってくれた。
彼の震えが、少しずつ治まってきている。
「ミュウル、また協力してくれるか?」
「もちろん!」
海を越えて、別の島へ逃げる。
ラディンの決断に、彼の意思を聞いた若者たちは海の上に浮かぶ家の縄を切り始めた。
観光客を中央に集めていたスラヤドも、一緒になって。
「あとは……」
さっきここへ来る途中、浜で平伏していた年寄りたちだ。
彼らを肩にひとりずつ担いで、中央の一番大きな小屋の船に乗せる。
バラバラになる家たちが、沖へ行くより早く、砂浜を蹴って彼らを運び終える頃。
「……っ!」
全身が痺れるような轟音に、一瞬、身体が固まった。
「ミュウルさん、もう限界っす! 噴火が本格化してる!」
ギザールの叫びに、すぐ海へ飛び込んだ。
もう砂浜には誰もいない。家一軒すら残っていない。
「ミュウル様、噴石が……!」
まだダメだ。
もっと沖へ出ないと――。
「ふんぬぬぬ……!」
高速バタ足で、手前の船を沖へ押し出すと。
その後ろの船たちも、押されるように沖へ流れ出した。
「ミュウル、そろそろ上がってこい……!」
ラディンの差し出してくれた手を握り、船の上へ飛び乗った――その時。
「えっ……?」
突然、船が強く揺れた。
「なんだ……!?」
ラディンの声が響く中、沖の方を見ると――。
ある地点を境に船が詰まっていた。
まるで見えない何かが、そこに立ちはだかっているみたいだ。
「ミュウルさん……まさかアレって!」
「うん……」
まさか、とは思いつつ、何十もある船を渡って前へ飛んで行くと。
闇の中に、カーテンのようにひらめく何かが揺れた。
「壁……?」
海の中にそびえるのは、見えない壁。
私がこれまで、破ってきたもの――世界を隔てる壁だ。
「どうしてここに……」
試しに触れてみると、刺すような痛みが走った。
「ミュウルさん! やっぱりアレっすか!?」
遠くから、息を切らした声がする。
「ギザール……!」
声を振り返れば、背後の山は赤と青が溶け合うように光っていた。
煙や噴石は、より激しさを増している。
(壁を壊して船を進めないと、だけど……)
私は知ってしまった。
この壁はもう、軽々しく壊していいものではないのだと。
『壁と生きるものたちを、見よ』
ヴァリナの大穴で聞いた、壁を守る魔族の声が反響する。
「はぁ、ミュウルさんっ……もしかして……」
追いついたギザールが、膝を折ったまま、まっすぐに私を見上げた。
「壁を壊すの、ためらってます?」
「……っ」
魔族にとって、壁は欠かせないもの。
壁から生まれる影は、彼らの生活の糧になっている。
それを私は目の当たりにした。
「でも……」
青と赤の炎が、美しい村があった砂浜を飲み込んでいく。
目の前では若者たちまで咳き込み、子どもが泣いている。
「ミュウルさん……!」
ギザールはそれ以上何も言わない。
手を震わせ、歯を噛みしめながらも、私の選択を待っているみたいだった。
「私は……」
この壁の、まったく違う二つの側面を知っている。
でも――今は、目の前にある命を助けたい。
「……ごめんね」
震える息を飲み込み、拳を握った。
この壁が、どこかの誰かに守られていたとしても。
壁と生きる魔族たちの、糧になっていたとしても。
それでも。
拳にありったけの光を宿した。
「通して……!」
闇を払う拳を、振りかぶった、その瞬間。
ザザッ――と、海を割るような音がした。
「……っ、ギザール!」
壁が割れたところから、激しい海風が吹く。
ギザールの身体を抱えて、船へ伏せていると。
「やった……っ、ミュウルさん、やりましたね!」
重なり合い、詰まっていた船が、沖へ流れていく。
「やった……」
でも――。
拳には、いつもはない痛みと熱が残っている。
壁を壊したのに。
船は通ったのに。
胸の奥で、呑み込めない何かがつっかえていた。




